う》に向って、マターファが余を紹介する。「アピア政府の反対を冒して、余(マターファ)を助けんが為に雨中を馳《は》せ来りし人物なれば、卿《きょう》等は以後ツシタラと親しみ、如何なる場合にも之に援助を惜しむべからず。」と。
 ディナー、政談、歓笑、カヴァ、――夜半迄続く。肉体的に堪えられなくなった余のために、家の一隅が囲われ、其処にベットが作られた。五十枚の極上のマットを並べた上で独り眠る。武装した護衛兵と、他に幾人かの夜警が、徹宵家の周囲に就いている。日没から日の出まで彼等は無交代である。
 暁方の四時頃、眼が覚めた。細々と、柔らかに、笛の音が外の闇から響いて来る。快い音色だ。和やかに、甘く、消入りそうな…………
 あとで聞くと、此の笛は、毎朝きまって此の時刻に吹かれることになっているのだそうだ。家の中に眠れる者に良き夢を送らんが為に。何たる優雅な贅沢《ぜいたく》! マターファの父は、「小鳥の王」といわれた位、小禽《ことり》共《ども》の声を愛していたそうだが、其の血が彼にも伝わっているのだ。
 朝食後テーラーと共に馬を走らせて帰途に就く。乗馬靴が濡れて穿《は》けないので跣足《はだし》。朝は美しく晴れたが、道は依然どろんこ[#「どろんこ」に傍点]。草のために腰まで濡れる。余り駈けさせたので、テーラーは豚柵の所で二度も馬から投出された。黒い沼。緑のマングロオヴ。赤い蟹《かに》、蟹、蟹。街に入ると、パテ(木の小太鼓)が響き、華やかな服を着けた土人の娘達が教会へはいって行く。今日は日曜だった。街で食事を摂ってから、帰宅。
 十六の柵を跳び越えて二十|哩《マイル》の騎行(しかも其の前半は豪雨の中)。六時間の政論。スケリヴォアで、ビスケットの中の穀象虫の様にちぢかんでいた曾《かつ》ての私とは、何という相違だろう!
 マターファは美しい見事な老人だ。我々は昨夜、完全な感情の一致を見たと思う。

五月××日
 雨、雨、雨、前の雨季の不足を補うかのように降続く。ココアの芽も充分水を吸っていよう。雨の屋根を叩く音が止むと、急流の水音が聞えて来る。
「サモア史脚註」完成。勿論、文学ではないが、公正且つ明確なる記録たることを疑わず。
 アピアでは白人達が納税を拒んだ。政府の会計報告がはっきりしないからだ。委員会も彼等を召喚する能《あた》わず。
 最近、我が家の巨漢ラファエレが女房のファアウマ
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