あるのだと、俺《おれ》は考える。もっとも、あの不埒《ふらち》な八戒《はっかい》の解釈によれば、俺たちの――少なくとも悟空《ごくう》の師父に対する敬愛の中には、多分に男色的要素が含まれているというのだが。
まったく、悟空《ごくう》のあの実行的な天才に比べて、三蔵法師は、なんと実務的には鈍物《どんぶつ》であることか! だが、これは二人の生きることの目的が違うのだから問題にはならぬ。外面的な困難にぶつかったとき、師父は、それを切抜ける途《みち》を外に求めずして、内に求める。つまり自分の心をそれに耐えうるように構えるのである。いや、そのとき慌《あわ》てて構えずとも、外的な事故によって内なるものが動揺を受けないように、平生《へいぜい》から構えができてしまっている。いつどこで窮死《きゅうし》してもなお幸福でありうる心を、師はすでに作り上げておられる。だから、外に途を求める必要がないのだ。我々から見ると危《あぶ》なくてしかたのない肉体上の無防禦《むぼうぎょ》も、つまりは、師の精神にとって別にたいした影響はないのである。悟空のほうは、見た眼にはすこぶる鮮やかだが、しかし彼の天才をもってしてもなお打開
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