師に、我々三人が斉《ひと》しく惹《ひ》かれているというのは、いったいどういうわけだろう? (こんなことを考えるのは俺だけだ。悟空《ごくう》も八戒《はっかい》もただなんとなく師父《しふ》を敬愛しているだけなのだから。)私は思うに、我々は師父のあの弱さの中に見られるある悲劇的なものに惹《ひ》かれるのではないか。これこそ、我々・妖怪からの成上がり者には絶対にないところのものなのだから。三蔵法師は、大きなものの中における自分の(あるいは人間の、あるいは生き物の)位置を――その哀れさと貴《とうと》さとをハッキリ悟っておられる。しかも、その悲劇性に堪えてなお、正しく美しいものを勇敢に求めていかれる。確かにこれだ、我々になくて師に在《あ》るものは。なるほど、我々は師よりも腕力がある。多少の変化の術も心得ている。しかし、いったん己《おのれ》の位置の悲劇性を悟ったが最後、金輪際《こんりんざい》、正しく美しい生活を真面目《まじめ》に続けていくことができないに違いない。あの弱い師父《しふ》の中にある・この貴い強さには、まったく驚嘆のほかはない。内なる貴さが外《そと》の弱さに包まれているところに、師父の魅力が
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