ほうし》が五行山頂の呪符《じゅふ》を剥《は》がして悟空を解き放ってくれたとき、彼はまたワアワアと哭いた。今度のは嬉《うれ》し涙であった。悟空が三蔵に随《したが》ってはるばる天竺までついて行こうというのも、ただこの嬉しさありがたさからである。実に純粋で、かつ、最も強烈な感謝であった。
さて、今にして思えば、釈迦牟尼《しゃかむに》によって取抑えられたときの恐怖が、それまでの悟空の・途方もなく大きな(善悪以前の)存在に、一つの地上的制限を与えたもののようである。しかもなお、この猿の形をした大きな存在が地上の生活に役立つものとなるためには、五行山の重みの下に五百年間押し付けられ、小さく凝集《ぎょうしゅう》する必要があったのである。だが、凝固《ぎょうこ》して小さくなった現在の悟空が、俺《おれ》たちから見ると、なんと、段違いにすばらしく大きくみごとであることか!
三蔵法師は不思議な方である。実に弱い。驚くほど弱い。変化《へんげ》の術ももとより知らぬ。途《みち》で妖怪《ようかい》に襲われれば、すぐに掴《つか》まってしまう。弱いというよりも、まるで自己防衛の本能がないのだ。この意気地のない三蔵法
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