にもけっして忘れることのできぬ怖《おそ》ろしい体験がたった[#「たった」に傍点]一つあった。あるとき彼はそのときの恐ろしさを俺《おれ》に向かってしみじみと語ったことがある。それは、彼が始めて釈迦如来《しゃかにょらい》に知遇《ちぐう》し奉ったときのことだ。
 そのころ、悟空は自分の力の限界を知らなかった。彼が藕糸歩雲《ぐうしほうん》の履《くつ》を穿《は》き鎖子《さし》黄金の甲《よろい》を着け、東海竜王《とうかいりゅうおう》から奪った一万三千五百|斤《きん》の如意金箍棒《にょいきんそうぼう》を揮《ふる》って闘うところ、天上にも天下にもこれに敵する者がないのである。列仙《れっせん》の集まる蟠桃会《はんとうえ》を擾《さわ》がし、その罰として閉じ込められた八卦炉《はっけろ》をも打破って飛出すや、天上界も狭しとばかり荒れ狂うた。群がる天兵を打倒し薙《な》ぎ倒し、三十六員の雷将を率《ひき》いた討手《うって》の大将|祐聖真君《ゆうせいしんくん》を相手に、霊霄殿《りょうしょうでん》の前に戦うこと半日余り。そのときちょうど、迦葉《かしょう》・阿難《あなん》の二|尊者《そんじゃ》を連れた釈迦牟尼如来《しゃか
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