いのである。

 猿《さる》は人真似《ひとまね》をするというのに、これはまた、なんと人真似をしない猴《さる》だろう! 真似どころか、他人から押付けられた考えは、たといそれが何千年の昔から万人に認められている考え方であっても、絶対に受付けないのだ。自分で充分に納得《なっとく》できないかぎりは。
 因襲《いんしゅう》も世間的名声もこの男の前にはなんの権威もない。

 悟空《ごくう》の今一つの特色は、けっして過去を語らぬことである。というより、彼は、過去《すぎさ》ったことは一切忘れてしまうらしい。少なくとも個々の出来事は忘れてしまうのだ。その代わり、一つ一つの経験の与えた教訓はその都度《つど》、彼の血液の中に吸収され、ただちに彼の精神および肉体の一部と化してしまう。いまさら、個々の出来事を一つ一つ記憶している必要はなくなるのである。彼が戦略上の同じ誤りをけっして二度と繰返さないのを見ても、これは判《わか》る。しかも彼はその教訓を、いつ、どんな苦い経験によって得たのかは、すっかり忘れ果てている。無意識のうちに体験を完全に吸収する不思議な力をこの猴《さる》は有《も》っているのだ。

 ただし、彼
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