えるのだ。生きものが三人寄れば、皆このように違うものであろうか? 生きものの生き方ほどおもしろいものはない。
孫行者《そんぎょうじゃ》の華《はな》やかさに圧倒されて、すっかり影の薄らいだ感じだが、猪悟能八戒《ちょごのうはっかい》もまた特色のある男には違いない。とにかく、この豚は恐ろしくこの生を、この世を愛しておる。嗅覚《きゅうかく》・味覚・触覚のすべてを挙げて、この世に執《しゅう》しておる。あるとき八戒《はっかい》が俺《おれ》に言ったことがある。「我々が天竺《てんじく》へ行くのはなんのためだ? 善業を修《ず》して来世に極楽に生まれんがためだろうか? ところで、その極楽《ごくらく》とはどんなところだろう。蓮《はす》の葉の上に乗っかってただゆらゆら揺れているだけではしようがないじゃないか。極楽にも、あの湯気の立つ羹《あつもの》をフウフウ吹きながら吸う楽しみや、こりこり[#「こりこり」に傍点]皮の焦《こ》げた香ばしい焼肉を頬張《ほおば》る楽しみがあるのだろうか? そうでなくて、話に聞く仙人のようにただ霞《かすみ》を吸って生きていくだけだったら、ああ、厭《いや》だ、厭だ。そんな極楽なんか、まっぴらだ! たとえ、辛《つら》いことがあっても、またそれを忘れさせてくれる・堪えられぬ怡《たの》しさのあるこの世がいちばんいいよ。少なくとも俺《おれ》にはね。」そう言ってから八戒は、自分がこの世で楽しいと思う事柄を一つ一つ数え立てた。夏の木蔭《こかげ》の午睡。渓流の水浴。月夜の吹笛《すいてき》。春暁の朝寐《あさね》。冬夜の炉辺歓談。……なんと愉《たの》しげに、また、なんと数多くの項目を彼は数え立てたことだろう! ことに、若い女人の肉体の美しさと、四季それぞれの食物の味に言い及んだとき、彼の言葉はいつまで経《た》っても尽きぬもののように思われた。俺はたまげてしまった。この世にかくも多くの怡《たの》しきことがあり、それをまた、かくも余すところなく味わっているやつがいようなどとは、考えもしなかったからである。なるほど、楽しむにも才能の要《い》るものだなと俺《おれ》は気がつき、爾来《じらい》、この豚を軽蔑《けいべつ》することを止《や》めた。だが、八戒《はっかい》と語ることが繁《しげ》くなるにつれ、最近妙なことに気がついてきた。それは、八戒の享楽主義の底に、ときどき、妙に不気味なものの影がちらり[#「ちらり」に傍点]と覗《のぞ》くことだ。「師父《しふ》に対する尊敬と、孫行者《そんぎょうじゃ》への畏怖《いふ》とがなかったら、俺はとっくにこんな辛《つら》い旅なんか止《や》めてしまっていたろう。」などと口では言っている癖に、実際はその享楽家的な外貌《がいぼう》の下に戦々兢々《せんせんきょうきょう》として薄氷《はくひょう》を履《ふ》むような思いの潜んでいることを、俺は確かに見抜いたのだ。いわば、天竺《てんじく》へのこの旅が、あの豚にとっても(俺にとってと同様)、幻滅と絶望との果てに、最後に縋《すが》り付いたただ一筋の糸に違いないと思われる節《ふし》が確かにあるのだ。だが、今は八戒の享楽主義の秘密への考察に耽《ふけ》っているわけにはいかぬ。とにかく、今のところ、俺は孫行者《そんぎょうじゃ》からあらゆるものを学び取らねばならぬのだ。他のことを顧みている暇はない。三蔵法師の智慧《ちえ》や八戒の生き方は、孫行者を卒業してからのことだ。まだまだ、俺は悟空《ごくう》からほとんど何ものをも学び取っておりはせぬ。流沙河《りゅうさが》の水を出てから、いったいどれほど進歩したか? 依然たる呉下《ごか》の旧阿蒙《きゅうあもう》ではないのか。この旅行における俺の役割にしたって、そうだ。平穏無事のときに悟空の行きすぎを引き留め、毎日の八戒の怠惰《たいだ》を戒《いまし》めること。それだけではないか。何も積極的な役割がないのだ。俺みたいな者は、いつどこの世に生まれても、結局は、調節者、忠告者、観測者にとどまるのだろうか。けっして行動者にはなれないのだろうか?
孫行者の行動を見るにつけ、俺は考えずにはいられない。「燃え盛る火は、みずからの燃えていることを知るまい。自分は燃えているな、などと考えているうちは、まだほんとうに燃えていないのだ。」と。悟空《ごくう》の闊達無碍《かったつむげ》の働きを見ながら俺《おれ》はいつも思う。「自由な行為とは、どうしてもそれをせずにはいられないもの[#「もの」に傍点]が内に熟してきて、おのずと外に現われる行為の謂《いい》だ。」と。ところで、俺はそれを思うだけなのだ。まだ一歩でも悟空についていけないのだ。学ぼう、学ぼうと思いながらも、悟空の雰囲気《ふんいき》の持つ桁違《けたちが》いの大きさに、また、悟空的なるものの肌合《はだあ》いの粗《あら》さに、恐れをなして近づ
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