師父を救い出しに行くのだ。「あぶなくて見ちゃいられない。どうして先生はああなんだろうなあ!」と言うとき、悟空はそれを弱きものへの憐愍《れんびん》だと自惚《うぬぼ》れているらしいが、実は、悟空の師に対する気持の中に、生き物のすべてがもつ・優者に対する本能的な畏敬《いけい》、美と貴さへの憧憬《どうけい》がたぶんに加わっていることを、彼はみずから知らぬのである。
もっとおかしいのは、師父自身が、自分の悟空に対する優越をご存じないことだ。妖怪の手から救い出されるたびごとに、師は涙を流して悟空に感謝される。「お前が助けてくれなかったら、わし[#「わし」に傍点]の生命はなかったろうに!」と。だが、実際は、どんな妖怪に喰《く》われようと、師の生命は死にはせぬのだ。
二人とも自分たちの真の関係を知らずに、互いに敬愛し合って(もちろん、ときにはちょっとしたいさかい[#「いさかい」に傍点]はあるにしても)いるのは、おもしろい眺めである。およそ対蹠《たいせき》的なこの二人の間に、しかし、たった一つ共通点があることに、俺《おれ》は気がついた。それは、二人がその生き方において、ともに、所与《しょよ》を必然と考え、必然を完全と感じていることだ。さらには、その必然を自由と看做《みな》していることだ。金剛石《こんごうせき》と炭とは同じ物質からでき上がっているのだそうだが、その金剛石と炭よりももっと違い方のはなはだしいこの二人の生き方が、ともにこうした現実の受取り方の上に立っているのはおもしろい。そして、この「必然と自由の等置《とうち》」こそ、彼らが天才であることの徴《しるし》でなくてなんであろうか?
悟空《ごくう》、八戒《はっかい》、俺《おれ》と我々三人は、まったくおかしいくらいそれぞれに違っている。日が暮れて宿がなく、路傍の廃寺に泊まることに相談が一決するときでも、三人はそれぞれ違った考えのもとに一致しているのである。悟空はかかる廃寺こそ究竟《くっきょう》の妖怪《ようかい》退治の場所だとして、進んで選ぶのだ。八戒は、いまさらよそを尋ねるのも億劫《おっくう》だし、早く家にはいって食事もしたいし、眠くもあるし、というのだし、俺の場合は、「どうせこのへんは邪悪な妖精《ようせい》に満ちているのだろう。どこへ行ったって災難に遭《あ》うのだとすれば、ここを災難の場所として選んでもいいではないか」と考
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