あるのだと、俺《おれ》は考える。もっとも、あの不埒《ふらち》な八戒《はっかい》の解釈によれば、俺たちの――少なくとも悟空《ごくう》の師父に対する敬愛の中には、多分に男色的要素が含まれているというのだが。
 まったく、悟空《ごくう》のあの実行的な天才に比べて、三蔵法師は、なんと実務的には鈍物《どんぶつ》であることか! だが、これは二人の生きることの目的が違うのだから問題にはならぬ。外面的な困難にぶつかったとき、師父は、それを切抜ける途《みち》を外に求めずして、内に求める。つまり自分の心をそれに耐えうるように構えるのである。いや、そのとき慌《あわ》てて構えずとも、外的な事故によって内なるものが動揺を受けないように、平生《へいぜい》から構えができてしまっている。いつどこで窮死《きゅうし》してもなお幸福でありうる心を、師はすでに作り上げておられる。だから、外に途を求める必要がないのだ。我々から見ると危《あぶ》なくてしかたのない肉体上の無防禦《むぼうぎょ》も、つまりは、師の精神にとって別にたいした影響はないのである。悟空のほうは、見た眼にはすこぶる鮮やかだが、しかし彼の天才をもってしてもなお打開できないような事態が世には存在するかもしれぬ。しかし、師の場合にはその心配はない。師にとっては、何も打開する必要がないのだから。
 悟空には、嚇怒《かくど》はあっても苦悩はない。歓喜はあっても憂愁《ゆうしゅう》はない。彼が単純にこの生を肯定《こうてい》できるのになんの不思議もない。三蔵法師の場合はどうか? あの病身と、禦《ふせ》ぐことを知らない弱さと、常に妖怪《ようかい》どもの迫害を受けている日々とをもってして、なお師父《しふ》は怡《たの》しげに生を肯《うべな》われる。これはたいしたことではないか!
 おかしいことに、悟空は、師の自分より優《まさ》っているこの点を理解していない。ただなんとなく師父から離れられないのだと思っている。機嫌《きげん》の悪いときには、自分が三蔵法師に随《したが》っているのは、ただ緊箍咒《きんそうじゅ》(悟空の頭に箝《は》められている金の輪で、悟空が三蔵法師の命に従わぬときにはこの輪が肉に喰《く》い入って彼の頭を緊《し》め付け、堪えがたい痛みを起こすのだ。)のためだ、などと考えたりしている。そして「世話の焼ける先生だ。」などとブツブツ言いながら、妖怪に捕えられた
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