きすでに鯉を平げてしまい、なお貪婪《どんらん》そうな眼つきを悟浄のうなだれた頸筋《くびすじ》に注《そそ》いでおったが、急に、その眼が光り、咽喉《のど》がゴクリと鳴った。ふと首を上げた悟浄は、咄嗟《とっさ》に、危険なものを感じて身を引いた。妖怪の刃のような鋭い爪《つめ》が、恐ろしい速さで悟浄の咽喉をかすめた。最初の一撃にしくじった妖怪の怒りに燃えた貪食《どんしょく》的な顔が大きく迫ってきた。悟浄は強く水を蹴《け》って、泥煙を立てるとともに、愴惶《そうこう》と洞穴を逃れ出た。苛刻《かこく》な現実精神をかの獰猛《どうもう》な妖怪から、身をもって学んだわけだ、と、悟浄は顫《ふる》えながら考えた。
隣人愛の教説者として有名な無腸公子《むちょうこうし》の講筵《こうえん》に列したときは、説教半ばにしてこの聖僧が突然|饑《う》えに駆られて、自分の実の子(もっとも彼は蟹《かに》の妖精《ようせい》ゆえ、一度に無数の子供を卵からかえすのだが)を二、三人、むしゃむしゃ喰《た》べてしまったのを見て、仰天《ぎょうてん》した。
慈悲忍辱《じひにんにく》を説く聖者が、今、衆人環視の中で自分の子を捕えて食った。そ
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