、必ず近き憂《うれ》いあり。達人《たつじん》は大観せぬものじゃ。」と教えた。「たとえばこの魚じゃ。」と、鮎子《ねんし》は眼前を泳ぎ過ぎる一尾の鯉《こい》を掴《つか》み取ったかと思うと、それをムシャムシャかじりながら、説くのである。「この魚だが、この魚が、なぜ、わし[#「わし」に傍点]の眼の前を通り、しかして、わし[#「わし」に傍点]の餌《え》とならねばならぬ因縁《いんねん》をもっているか、をつくづくと考えてみることは、いかにも仙哲《せんてつ》にふさわしき振舞いじゃが、鯉を捕える前に、そんなことをくどくどと考えておった日には、獲物は逃げて行くばっかりじゃ。まずすばやく鯉を捕え、これにむしゃぶりついてから、それを考えても遅うはない。鯉は何故《なにゆえ》に鯉なりや、鯉と鮒《ふな》との相異についての形而上《けいじじょう》学的考察、等々の、ばかばかしく高尚《こうしょう》な問題にひっかかって、いつも鯉を捕えそこなう男じゃろう、お前《まえ》は。おまえの物憂《ものう》げな眼《め》の光が、それをはっきり[#「はっきり」に傍点]告げとるぞ。どうじゃ。」確かにそれに違いないと、悟浄は頭を垂れた。妖怪はそのと
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