嚏《くしゃみ》一つ、汝の貧しい理性と意志とをもってしては、左右できぬではないか。」
 白皙《はくせき》の青年は頬《ほお》を紅潮させ、声を嗄《か》らして叱咤《しった》した。その女性的な高貴な風姿のどこに、あのような激しさが潜んでいるのか。悟浄は驚きながら、その燃えるような美しい瞳《ひとみ》に見入った。渠《かれ》は青年の言葉から火のような聖《きよ》い矢が自分の魂に向かって放たれるのを感じた。
「我々の為《な》しうるのは、ただ神を愛し己《おのれ》を憎むことだけだ。部分は、みずからを、独立した本体だと自惚《うぬぼ》れてはならぬ。あくまで、全体の意志をもって己の意志とし、全体のためにのみ、自己を生きよ。神に合するものは一つの霊となるのだ」
 確かにこれは聖《きよ》く優《すぐ》れた魂の声だ、と悟浄は思い、しかし、それにもかかわらず、自分の今|饑《う》えているものが、このような神の声でないことをも、また、感ぜずにはいられなかった。訓言《おしえ》は薬のようなもので、※[#「やまいだれ+亥」、第3水準1−88−46]瘧《おこり》を病む者の前に※[#「やまいだれ+重」、第4水準2−81−58]腫《はれもの
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