まま睡っている僧形《そうぎょう》がぼんやり目前に浮かび上がってきた。外からの音も聞こえず、魚類もまれにしか来ない所で、悟浄もしかたなしに、坐忘先生の前に坐《すわ》って眼を瞑《つぶ》ってみたら、何かジーンと耳が遠くなりそうな感じだった。
 悟浄が来てから四日めに先生は眼を開いた。すぐ目の前で悟浄があわてて立上がり、礼拝《らいはい》をするのを、見るでもなく見ぬでもなく、ただ二、三度|瞬《まばた》きをした。しばらく無言の対坐《たいざ》を続けたのち悟浄は恐る恐る口をきいた。「先生。さっそくでぶしつけでございますが、一つお伺いいたします。いったい『我』とはなんでございましょうか?」「咄《とつ》! 秦時《しんじ》の※[#「車+度」、139−16]轢鑚《たくらくさん》!」という烈しい声とともに、悟浄の頭はたちまち一棒を喰《くら》った。渠《かれ》はよろめいたが、また座に直り、しばらくして、今度は十分に警戒しながら、先刻の問いを繰返した。今度は棒が下《お》りて来なかった。厚い唇《くちびる》を開き、顔も身体もどこも絶対に動かさずに、坐忘先生が、夢の中でのような言葉で答えた。「長く食を得ぬときに空腹を覚える
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