よ。そう懼《おそ》れることはない。浪《なみ》にさらわれる者は溺《おぼ》れるが、浪に乗る者はこれを越えることができる。この有為転変《ういてんぺん》をのり超えて不壊不動《ふえふどう》の境地に到ることもできぬではない。古《いにしえ》の真人《しんじん》は、能《よ》く是非を超え善悪を超え、我を忘れ物を忘れ、不死不生《ふしふしょう》の域に達しておったのじゃ。が、昔から言われておるように、そういう境地が楽しいものだと思うたら、大間違い。苦しみもない代わりには、普通の生きものの有《も》つ楽しみもない。無味、無色。誠《まこと》に味気《あじけ》ないこと蝋《ろう》のごとく砂のごとしじゃ。」
悟浄は控えめに口を挾《はさ》んだ。自分の聞きたいと望むのは、個人の幸福とか、不動心《ふどうしん》の確立とかいうことではなくて、自己、および世界の究極の意味についてである、と。隠士は目脂《めやに》の溜《たま》った眼をしょぼつかせながら答えた。
「自己だと? 世界だと? 自己を外《ほか》にして客観世界など、在ると思うのか。世界とはな、自己が時間と空間との間に投射した幻《まぼろし》じゃ。自己が死ねば世界は消滅しますわい。自己
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