めに全力を挙げて試みよう。決定的な失敗に帰《き》したっていいのだ。今までいつも、失敗への危惧《きぐ》から努力を抛棄《ほうき》していた渠が、骨折り損を厭《いと》わないところにまで昇華《しょうか》されてきたのである。

       六

 悟浄《ごじょう》の肉体はもはや疲れ切っていた。
 ある日、渠《かれ》は、とある道ばたにぶっ倒れ、そのまま深い睡《ねむ》りに落ちてしまった。まったく、何もかも忘れ果てた昏睡《こんすい》であった。渠は昏々《こんこん》として幾日か睡り続けた。空腹も忘れ、夢も見なかった。
 ふと、眼《め》を覚ましたとき、何か四辺《あたり》が、青白く明るいことに気がついた。夜であった。明るい月夜であった。大きな円《まる》い春の満月が水の上から射し込んできて、浅い川底を穏やかな白い明るさで満たしているのである。悟浄は、熟睡のあとのさっぱりした気持で起上がった。とたんに空腹に気づいた。渠はそのへんを泳いでいた魚類を五、六尾|手掴《てづか》みにしてむしゃむしゃ頬張《ほおば》り、さて、腰に提《さ》げた瓢《ふくべ》の酒を喇叭《らっぱ》飲みにした。旨《うま》かった。ゴクリゴクリと渠は音を立てて飲んだ。瓢《ふくべ》の底まで飲み干してしまうと、いい気持で歩き出した。
 底の真砂《まさご》の一つ一つがはっきり見分けられるほど明るかった。水草に沿うて、絶えず小さな水泡《みなわ》の列が水銀球のように光り、揺れながら昇って行く。ときどき渠《かれ》の姿を見て逃出す小魚どもの腹が白く光っては青水藻《あおみどろ》の影に消える。悟浄はしだいに陶然としてきた。柄《がら》にもなく歌が唱《うた》いたくなり、すんでのことに、声を張上げるところだった。そのとき、ごく遠くの方で誰かの唱っているらしい声が耳にはいってきた。渠は立停《たちど》まって耳をすました。その声は水の外から来るようでもあり、水底のどこか遠くから来るようでもある。低いけれども澄透《すみとお》った声でほそぼそと聞こえてくるその歌に耳を傾ければ、

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江国春風吹不起《こうこくのしゅんぷうふきたたず》
鷓鴣啼在深花裏《しゃこないてしんかのうちにあり》
三級浪高魚化竜《さんきゅうなみたこうしてうおりゅうにかす》
痴人《ちじん》猶※[#「尸+斗」、158−13]《なおくむ》夜塘水《やとうのみず》
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 どうやら、そんな文句のようでもある。悟浄《ごじょう》はその場に腰を下ろして、なおもじっと聴入った。青白い月光に染まった透明な水の世界の中で、単調な歌声は、風に消えていく狩りの角笛の音《ね》のように、ほそぼそといつまでもひびいていた。
 寐《ね》たのでもなく、さりとて覚めていたのでもない。悟浄は、魂が甘く疼《うず》くような気持で茫然《ぼうぜん》と永い間そこに蹲《うずくま》っていた。そのうちに、渠《かれ》は奇妙な、夢とも幻ともつかない世界にはいって行った。水草も魚の影も卒然《そつぜん》と渠の視界から消え去り、急に、得《え》もいわれぬ蘭麝《らんじゃ》の匂《にお》いが漂うてきた。と思うと、見慣れぬ二人の人物がこちらへ進んで来るのを渠は見た。
 前なるは手に錫杖《しゃくじょう》をついた一癖《ひとくせ》ありげな偉丈夫《いじょうふ》。後ろなるは、頭に宝珠瓔珞《ほうじゅようらく》を纏《まと》い、頂に肉髻《にくけい》あり、妙相端厳《みょうそうたんげん》、仄《ほの》かに円光《えんこう》を負うておられるは、何さま尋常人《ただびと》ならずと見えた。さて前なるが近づいて言った。
「我は托塔《たくとう》天王の二太子、木叉恵岸《もくしゃえがん》。これにいますはすなわち、わが師父《しふ》、南海の観世音菩薩《かんぜおんぼさつ》摩訶薩《まかさつ》じゃ。天竜《てんりゅう》・夜叉《やしゃ》・乾闥婆《けんだつば》より、阿脩羅《あしゅら》・迦楼羅《かるら》・緊那羅《きんなら》・摩※[#「目+喉のつくり」、第3水準1−88−88]羅伽《まごらか》・人・非人に至るまで等しく憫《あわ》れみを垂れさせたもうわが師父には、このたび、爾《なんじ》、悟浄が苦悩《くるしみ》をみそなわして、特にここに降《くだ》って得度《とくど》したもうのじゃ。ありがたく承るがよい。」
 覚えず頭《こうべ》を垂れた悟浄の耳に、美しい女性的な声――妙音《みょうおん》というか、梵音《ぼんおん》というか、海潮音《かいちょうおん》というか、――が響いてきた。
「悟浄《ごじょう》よ、諦《あきら》かに、わが言葉を聴いて、よくこれを思念せよ。身の程《ほど》知らずの悟浄よ。いまだ得ざるを得たりといいいまだ証《あかし》せざるを証せりと言うのをさえ、世尊《せそん》はこれを増上慢《ぞうじょうまん》とて難ぜられた。さすれば、証すべからざることを証せんと求めた爾《な
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