んじ》のごときは、これを至極《しごく》の増上慢といわずしてなんといおうぞ。爾の求むるところは、阿羅漢《あらかん》も辟支仏《びゃくしぶつ》もいまだ求むる能《あた》わず、また求めんともせざるところじゃ。哀れな悟浄よ。いかにして爾の魂はかくもあさましき迷路に入ったぞ。正観を得れば浄業《じょうごう》たちどころに成るべきに、爾、心相羸劣《しんそうるいれつ》にして邪観《じゃかん》に陥り、今この三途無量《さんずむりょう》の苦悩に遭《あ》う。惟《おも》うに、爾《なんじ》は観想《かんそう》によって救わるべくもないがゆえに、これよりのちは、一切の思念を棄《す》て、ただただ身を働かすことによってみずからを救おうと心がけるがよい。時とは人の作用《はたらき》の謂《いい》じゃ。世界は、概観によるときは無意味のごとくなれども、その細部に直接働きかけるときはじめて無限の意味を有《も》つのじゃ。悟浄よ。まずふさわしき場所に身を置き、ふさわしき働きに身を打込め。身の程知らぬ『何故』は、向後《こうご》一切打捨てることじゃ。これをよそにして、爾の救いはないぞ。さて、今年の秋、この流沙河《りゅうさが》を東から西へと横切る三人の僧があろう。西方|金蝉《きんせん》長老の転生《うまれかわり》、玄奘法師《げんじょうほうし》と、その二人の弟子どもじゃ。唐《とう》の太宗皇帝《たいそうこうてい》の綸命《りんめい》を受け、天竺国《てんじくこく》大雷音寺《だいらいおんじ》に大乗三蔵《だいじょうさんぞう》の真経《しんぎょう》をとらんとて赴《おもむ》くものじゃ。悟浄よ、爾《なんじ》も玄奘に従うて西方に赴《おもむ》け。これ爾にふさわしき位置《ところ》にして、また、爾にふさわしき勤めじゃ。途《みち》は苦しかろうが、よく、疑わずして、ただ努めよ。玄奘の弟子の一人に悟空《ごくう》なるものがある。無知無識にして、ただ、信じて疑わざるものじゃ。爾は特にこの者について学ぶところが多かろうぞ。」
 悟浄がふたたび頭をあげたとき、そこには何も見えなかった。渠《かれ》は茫然《ぼうぜん》と水底の月明の中に立ちつくした。妙な気持である。ぼんやりした頭の隅で、渠は次のようなことをとりとめ[#「とりとめ」に傍点]もなく考えていた。
「……そういうことが起こりそうな者に、そういうことが起こり、そういうことが起こりそうなときに、そういうことが起こるんだな。半年前の俺《おれ》だったら、今のようなおかしな夢なんか見るはずはなかったんだがな。……今の夢の中の菩薩《ぼさつ》の言葉だって、考えてみりゃ、女※[#「人べん+禹」、160−18]《じょう》氏や※[#「虫+糾のつくり」、第4水準2−87−27]髯鮎子《きゅうぜんねんし》の言葉と、ちっとも違ってやしないんだが、今夜はひどく身にこたえるのは、どうも変だぞ。そりゃ俺だって、夢なんかが救済《すくい》になるとは思いはしないさ。しかし、なぜか知らないが、もしかすると、今の夢のお告げの唐僧《とうそう》とやらが、ほんとうにここを通るかもしれないというような気がしてしかたがない。そういうことが起こりそうなときには、そういうことが起こるものだというやつでな。……」
 渠はそう思って久しぶりに微笑した。

       七

 その年の秋、悟浄《ごじょう》は、はたして、大唐《だいとう》の玄奘法師《げんじょうほうし》に値遇《ちぐう》し奉り、その力で、水から出て人間となりかわることができた。そうして、勇敢にして天真爛漫《てんしんらんまん》な聖天大聖《せいてんたいせい》孫悟空《そんごくう》や、怠惰《たいだ》な楽天家、天蓬元帥《てんぽうげんすい》猪悟能《ちょごのう》とともに、新しい遍歴《へんれき》の途に上ることとなった。しかし、その途上でも、まだすっかり[#「すっかり」に傍点]は昔の病の脱《ぬ》け切っていない悟浄は、依然として独り言の癖を止《や》めなかった。渠《かれ》は呟《つぶや》いた。
「どうもへん[#「へん」に傍点]だな。どうも腑《ふ》に落ちない。分からないことを強《し》いて尋ねようとしなくなることが、結局、分かったということなのか? どうも曖昧《あいまい》だな! あまりみごとな脱皮《だっぴ》ではないな! フン、フン、どうも、うまく納得《なっとく》がいかぬ。とにかく、以前ほど、苦にならなくなったのだけは、ありがたいが……。」
[#地から字上げ]――「わが西遊記」の中――



底本:「李陵・山月記・弟子・名人伝」角川文庫 角川書店
   1968(昭和43)年9月10日改版初版発行
   1998(平成10)年5月30日改版52版発行
入力:佐野良二
校正:松永正敏
2001年3月16日公開
2004年2月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http
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