行なうとは、より明確な思索のしかたであると知れ。何事も意識の毒汁《どくじゅう》の中に浸さずにはいられぬ憐《あわ》れな悟浄よ。我々の運命を決定する大きな変化は、みんな我々の意識を伴わずに行なわれるのだぞ。考えてもみよ。お前が生まれたとき、お前はそれを意識しておったか?」
 悟浄《ごじょう》は謹しんで師に答えた。師の教えは、今ことに身にしみてよく理解される。実は、自分も永年の遍歴の間に、思索だけではますます泥沼《どろぬま》に陥るばかりであることを感じてきたのであるが、今の自分を突破って生まれ変わることができずに苦しんでいるのである、と。それを聞いて女※[#「人べん+禹」、154−3]《じょう》氏は言った。
「渓流が流れて来て断崖《だんがい》の近くまで来ると、一度|渦巻《うずまき》をまき、さて、それから瀑布《ばくふ》となって落下する。悟浄よ。お前は今その渦巻の一歩手前で、ためらっているのだな。一歩渦巻にまき込まれてしまえば、那落《ならく》までは一息。その途中に思索や反省や低徊《ていかい》のひまはない。臆病《おくびょう》な悟浄よ。お前は渦巻《うずま》きつつ落ちて行く者どもを恐れと憐《あわ》れみとをもって眺《なが》めながら、自分も思い切って飛込もうか、どうしようかと躊躇《ちゅうちょ》しているのだな。遅かれ早かれ自分は谷底に落ちねばならぬとは十分に承知しているくせに。渦巻《うずまき》にまき込まれないからとて、けっして幸福ではないことも承知しているくせに。それでもまだお前は、傍観者の地位に恋々《れんれん》として離れられないのか。物凄《ものすご》い生の渦巻の中で喘《あえ》いでいる連中が、案外、はた[#「はた」に傍点]で見るほど不幸ではない(少なくとも懐疑的な傍観者より何倍もしあわせ[#「しあわせ」に傍点]だ)ということを、愚かな悟浄よ、お前は知らないのか。」
 師の教えのありがたさは骨髄《こつずい》に徹して感じられたが、それでもなおどこか釈然としないものを残したまま、悟浄は、師のもとを辞した。
 もはや誰にも道を聞くまいぞと、渠《かれ》は思うた。「誰も彼も、えらそうに見えたって、実は何一つ解《わか》ってやしないんだな」と悟浄は独言《ひとりごと》を言いながら帰途についた。「『お互いに解ってるふり[#「ふり」に傍点]をしようぜ。解ってやしないんだってことは、お互いに解り切ってるんだから』という約束のもとにみんな生きているらしいぞ。こういう約束がすでに在るのだとすれば、それをいまさら、解らない解らないと言って騒ぎ立てる俺は、なんという気の利《き》かない困りものだろう。まったく。」

       五

 のろま[#「のろま」に傍点]で愚図《ぐず》の悟浄《ごじょう》のことゆえ、翻然大悟《ほんぜんたいご》とか、大活現前《だいかつげんぜん》とかいった鮮《あざ》やかな芸当を見せることはできなかったが、徐々に、目に見えぬ変化が渠《かれ》の上に働いてきたようである。
 はじめ、それは賭《か》けをするような気持であった。一つの選択が許される場合、一つの途《みち》が永遠の泥濘《でいねい》であり、他の途が険《けわ》しくはあってもあるいは救われるかもしれぬのだとすれば、誰しもあとの途を選ぶにきまっている。それだのになぜ躊躇《ちゅうちょ》していたのか。そこで渠《かれ》ははじめて、自分の考え方の中にあった卑《いや》しい功利的なものに気づいた。嶮《けわ》しい途《みち》を選んで苦しみ抜いた揚句《あげく》に、さて結局救われないとなったら取返しのつかない損だ、という気持が知らず知らずの間に、自分の不決断に作用していたのだ。骨折り損を避けるために、骨はさして折れない代わりに決定的な損亡へしか導かない途に留まろうというのが、不精《ぶしょう》で愚かで卑しい俺《おれ》の気持だったのだ。女※[#「人べん+禹」、155−15]《じょう》氏のもとに滞在している間に、しかし、渠の気持も、しだいに一つの方向へ追詰められてきた。初めは追つめられたものが、しまいにはみずから進んで動き出すものに変わろうとしてきた。自分は今まで自己の幸福を求めてきたのではなく、世界の意味を尋ねてきたと自分では思っていたが、それはとんでもない間違いで、実は、そういう変わった形式のもとに、最も執念深く自己の幸福を探していたのだということが、悟浄に解《わか》りかけてきた。自分は、そんな世界の意味を云々《うんぬん》するほどたいした生きものでないことを、渠《かれ》は、卑下《ひげ》感をもってでなく、安らかな満足感をもって感じるようになった。そして、そんな生意気をいう前に、とにかく、自分でもまだ知らないでいるに違いない自己を試み展開してみようという勇気が出てきた。躊躇《ちゅうちょ》する前に試みよう。結果の成否は考えずに、ただ、試みるた
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