しも賢くなっていないことを見いだした。賢くなるどころか、なにかしら自分がフワフワした(自分でないような)訳の分からないものに成り果てたような気がした。昔の自分は愚かではあっても、少なくとも今よりは、しっかり[#「しっかり」に傍点]とした――それはほとんど肉体的な感じで、とにかく自分の重量を有《も》っていたように思う。それが今は、まるで重量のない・吹けば飛ぶようなものになってしまった。外《そと》からいろんな模様を塗り付けられはしたが、中味のまるでないものに。こいつは、いけないぞ、と悟浄は思った。思索による意味の探索以外に、もっと直接的な解答《こたえ》があるのではないか、という予感もした。こうした事柄に、計算の答えのような解答を求めようとした己《おのれ》の愚かさ。そういうことに気がつきだしたころ、行く手の水が赤黒く濁ってきて、渠《かれ》は目指す女※[#「人べん+禹」、151−17]《じょう》氏のもとに着いた。

 女※[#「人べん+禹」、152−1]《じょう》氏は一見きわめて平凡な仙人《せんにん》で、むしろ迂愚《うぐ》とさえ見えた。悟浄が来ても別に渠《かれ》を使うでもなく、教えるでもなかった。堅彊《けんきょう》は死の徒《と》、柔弱《にゅうじゃく》は生の徒なれば、「学ぼう。学ぼう」というコチコチの態度を忌まれたもののようである。ただ、ほんのときたま、別に誰に向かって言うのでもなく、何か呟《つぶや》いておられることがある。そういうとき、悟浄は急いで聞き耳を立てるのだが、声が低くてたいていは聞きとれない。三《み》月の間、渠はついになんの教えも聞くことができなかった。「賢者《けんじゃ》が他人について知るよりも、愚者《ぐしゃ》が己《おのれ》について知るほうが多いものゆえ、自分の病は自分で治さねばならぬ」というのが、女※[#「人べん+禹」、152−7]氏から聞きえた唯一の言葉だった。三《み》月めの終わりに、悟浄はもはやあきらめて、暇乞《いとまご》いに師のもとへ行った。するとそのとき、珍しくも女※[#「人べん+禹」、152−9]氏は縷々《るる》として悟浄に教えを垂れた。「目が三つないからとて悲しむことの愚かさについて」「爪《つめ》や髪の伸長をも意志によって左右しようとしなければ気が済まない者の不幸について」「酔うている者は車から墜《お》ちても傷つかないことについて」「しかし、一概に考えることが悪いとは言えないのであって、考えない者の幸福は、船酔いを知らぬ豚のようなものだが、ただ考えることについて考えることだけは禁物であるということについて」
 女※[#「人べん+禹」、152−14]氏は、自分のかつて識《し》っていた、ある神智を有する魔物のことを話した。その魔物は、上は星辰《せいしん》の運行から、下は微生物類の生死に至るまで、何一つ知らぬことなく、深甚微妙《しんじんみみょう》な計算によって、既往のあらゆる出来事を溯《さかのぼ》って知りうるとともに、将来起こるべきいかなる出来事をも推知しうるのであった。ところが、この魔物はたいへん不幸だった。というのは、この魔物があるときふと、「自分のすべて予見しうる全世界の出来事が、何故《なにゆえ》に(経過的ないかにして[#「いかにして」に傍点]ではなく、根本的な何故に[#「何故に」に傍点])そのごとく起こらねばならぬか」ということに想到し、その究極の理由が、彼の深甚微妙なる大計算をもってしてもついに探《さが》し出せないことを見いだしたからである。何故|向日葵《ひまわり》は黄色いか。何故草は緑か。何故すべてがかく在《あ》るか。この疑問が、この神通力《じんずうりき》広大な魔物を苦しめ悩ませ、ついに惨《みじ》めな死にまで導いたのであった。
 女※[#「人べん+禹」、153−5]《じょう》氏はまた、別の妖精《ようせい》のことを話した。これはたいへん小さなみすぼらしい魔物だったが、常に、自分はある小さな鋭く光ったものを探しに生まれてきたのだと言っていた。その光るものとはどんなものか、誰にも解らなかったが、とにかく、小妖精《しょうようせい》は熱心にそれを求め、そのために生き、そのために死んでいったのだった。そしてとうとう、その小さな鋭く光ったものは見つからなかったけれど、その小妖精の一生はきわめて幸福なものだったと思われると女※[#「人べん+禹」、153−9]氏は語った。かく語りながら、しかし、これらの話のもつ意味については、なんの説明もなかった。ただ、最後に、師は次のようなことを言った。
「聖なる狂気を知る者は幸いじゃ。彼はみずからを殺すことによって、みずからを救うからじゃ。聖なる狂気を知らぬ者は禍《わざわ》いじゃ。彼は、みずからを殺しも生かしもせぬことによって、徐々に亡びるからじゃ。愛するとは、より高貴な理解のしかた。
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