−15]婆《はんいけつば》の所へ行った。すでに五百余歳を経ている女怪《じょかい》だったが、肌《はだ》のしなやかさは少しも処女と異なるところがなく、婀娜《あだ》たるその姿態は能《よ》く鉄石《てっせき》の心をも蕩《とろ》かすといわれていた。肉の楽しみを極《きわ》めることをもって唯一の生活信条としていたこの老女怪は、後庭に房を連ねること数十、容姿|端正《たんせい》な若者を集めて、この中に盈《み》たし、その楽しみに耽《ふ》けるにあたっては、親昵《しんじつ》をも屏《しりぞ》け、交遊をも絶ち、後庭に隠れて、昼をもって夜に継ぎ、三《み》月に一度しか外に顔を出さないのである。悟浄の訪ねたのはちょうどこの三月に一度のときに当たったので、幸いに老女怪を見ることができた。道を求める者と聞いて、※[#「魚+厥」、149−3]婆《けつば》は悟浄に説き聞かせた。ものうい憊《つか》れの翳《かげ》を、嬋娟《せんけん》たる容姿のどこかに見せながら。
「この道ですよ。この道ですよ。聖賢の教えも仙哲《せんてつ》の修業も、つまりはこうした無上法悦《むじょうほうえつ》の瞬間を持続させることにその目的があるのですよ。考えてもごらんなさい。この世に生を享《う》けるということは、実に、百千万億|恒河沙《ごうがしゃ》劫無限《こうむげん》の時間の中でも誠《まこと》に遇《あ》いがたく、ありがたきことです。しかも一方、死は呆《あき》れるほど速やかに私たちの上に襲いかかってくるものです。遇いがたきの生をもって、及びやすきの死を待っている私たちとして、いったい、この道のほかに何を考えることができるでしょう。ああ、あの痺《しび》れるような歓喜! 常に新しいあの陶酔!」と女怪は酔ったように※[#「豐+盍」、第4水準2−88−94]妖淫靡《えんよういんび》な眼を細くして叫んだ。
「貴方《あなた》はお気の毒ながらたいへん醜いおかたゆえ、私のところに留《とど》まっていただこうとは思いませぬから、ほんとうのことを申しますが、実は、私の後房では毎年百人ずつの若い男が困憊《つかれ》のために死んでいきます。しかしね、断わっておきますが、その人たちはみんな喜んで、自分の一生に満足して死んでいくのですよ。誰一人、私のところへ留まったことを怨《うら》んで死んだ者はありませなんだ。今死ぬために、この楽しみがこれ以上続けられないことを悔やんだ者はありましたが。」
 悟浄の醜さを憐《あわ》れむような眼《め》つきをしながら、最後に※[#「魚+厥」、149−18]婆《けつば》はこうつけ加えた。
「徳とはね、楽しむことのできる能力のことですよ。」
 醜いがゆえに、毎年死んでいく百人の仲間に加わらないで済んだことを感謝しつつ、悟浄はなおも旅を続けた。

 賢人《けんじん》たちの説くところはあまりにもまちまちで、渠《かれ》はまったく何を信じていいやら解らなかった。
「我とはなんですか?」という渠の問いに対して、一人の賢者はこういった。「まず吼《ほ》えてみろ。ブウと鳴くようならお前は豚じゃ。ギャアと鳴くようなら鵝鳥《がちょう》じゃ」と。他の賢者はこう教えた。「自己とはなんぞやとむりに言い表わそうとさえしなければ、自己を知るのは比較的困難ではない」と。また、曰《いわ》く「眼は一切を見るが、みずからを見ることができない。我とは所詮《しょせん》、我の知る能《あた》わざるものだ」と。
 別の賢者は説いた、「我はいつも我だ。我の現在の意識の生ずる以前の・無限の時を通じて我といっていたものがあった。(それを誰も今は、記憶していないが)それがつまり今の我になったのだ。現在の我の意識が亡《ほろ》びたのちの無限の時を通じて、また、我というものがあるだろう。それを今、誰も予見することができず、またそのときになれば、現在の我の意識のことを全然忘れているに違いないが」と。
 次のように言った男もあった。「一つの継続した我とはなんだ? それは記憶の影の堆積《たいせき》だよ」と。この男はまた悟浄にこう教えてくれた。「記憶の喪失ということが、俺《おれ》たちの毎日していることの全部だ。忘れてしまっていることを忘れてしまっているゆえ、いろんなことが新しく感じられるんだが、実は、あれは、俺たちが何もかも徹底的に忘れちまうからのことなんだ。昨日のことどころか、一瞬間前のことをも、つまりそのときの知覚、そのときの感情をも何もかも次の瞬間には忘れちまってるんだ。それらの、ほんの僅《わず》か一部の、朧《おぼろ》げな複製があとに残るにすぎないんだ。だから、悟浄よ、現在の瞬間てやつは、なんと、たいしたものじゃないか」と。

 さて、五年に近い遍歴《へんれき》の間、同じ容態に違った処方をする多くの医者たちの間を往復するような愚かさを繰返したのち、悟浄《ごじょう》は結局自分が少
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