して、食い終わってから、その事実をも忘れたるがごとくに、ふたたび慈悲の説を述べはじめた。忘れたのではなくて、先刻の飢えを充《み》たすための行為は、てんで彼の意識に上っていなかったに相違ない。ここにこそ俺《おれ》の学ぶべきところがあるのかもしれないぞ、と、悟浄《ごじょう》はへん[#「へん」に傍点]な理窟《りくつ》をつけて考えた。俺の生活のどこに、ああした本能的な没我的な瞬間があるか。渠《かれ》は、貴《とうと》き訓《おしえ》を得たと思い、跪《ひざまず》いて拝んだ。いや、こんなふうにして、いちいち概念的な解釈をつけてみなければ気の済まないところに、俺の弱点があるのだ、と、渠は、もう一度思い直した。教訓を、罐詰《かんづめ》にしないで生《なま》のままに身につけること、そうだ、そうだ、と悟浄は今一遍、拝《はい》をしてから、うやうやしく立去った。
蒲衣子《ほいし》の庵室《あんしつ》は、変わった道場である。僅《わず》か四、五人しか弟子はいないが、彼らはいずれも師の歩みに倣《なろ》うて、自然の秘鑰《ひやく》を探究する者どもであった。探求者というより、陶酔者と言ったほうがいいかもしれない。彼らの勤めるのは、ただ、自然を観《み》て、しみじみとその美しい調和の中に透過することである。
「まず感じることです。感覚を、最も美しく賢く洗煉《せんれん》することです。自然美の直接の感受から離れた思考などとは、灰色の夢ですよ。」と弟子の一人が言った。
「心を深く潜ませて自然をごらんなさい。雲、空、風、雪、うす碧《あお》い氷、紅藻《べにも》の揺れ、夜水中でこまかくきらめく珪藻《けいそう》類の光、鸚鵡貝《おうむがい》の螺旋《らせん》、紫水晶《むらさきすいしょう》の結晶、柘榴石《ざくろいし》の紅、螢石《ほたるいし》の青。なんと美しくそれらが自然の秘密を語っているように見えることでしょう。」彼の言うことは、まるで詩人の言葉のようだった。
「それだのに、自然の暗号文字を解くのも今一歩というところで、突然、幸福な予感は消去り、私どもは、またしても、美しいけれども冷たい自然の横顔を見なければならないのです。」と、また、別の弟子が続けた。「これも、まだ私どもの感覚の鍛錬が足りないからであり、心が深く潜んでいないからなのです。私どもはまだまだ努めなければなりません。やがては、師のいわれるように『観ることが愛することであり、愛することが創造《つく》ることである』ような瞬間をもつことができるでしょうから。」
その間も、師の蒲衣子《ほいし》は一言も口をきかず、鮮緑の孔雀石《くじゃくいし》を一つ掌《てのひら》にのせて、深い歓《よろこ》びを湛《たた》えた穏やかな眼差《まなざし》で、じっとそれを見つめていた。
悟浄は、この庵室に一《ひと》月ばかり滞在した。その間、渠《かれ》も彼らとともに自然詩人となって宇宙の調和を讃《たた》え、その最奥《さいおう》の生命に同化することを願うた。自分にとって場違いであるとは感じながらも、彼らの静かな幸福に惹《ひ》かれたためである。
弟子の中に、一人、異常に美しい少年がいた。肌《はだ》は白魚のように透《す》きとおり、黒瞳《こくとう》は夢見るように大きく見開かれ、額にかかる捲毛《まきげ》は鳩《はと》の胸毛のように柔らかであった。心に少しの憂いがあるときは、月の前を横ぎる薄雲ほどの微《かす》かな陰翳《かげ》が美しい顔にかかり、歓《よろこ》びのあるときは静かに澄んだ瞳《ひとみ》の奥が夜の宝石のように輝いた。師も朋輩《ほうばい》もこの少年を愛した。素直で、純粋で、この少年の心は疑うことを知らないのである。ただあまりに美しく、あまりにかぼそく、まるで何か貴い気体ででもできているようで、それがみんなに不安なものを感じさせていた。少年は、ひまさえあれば、白い石の上に淡飴色《うすあめいろ》の蜂蜜《はちみつ》を垂らして、それでひるがお[#「ひるがお」に傍点]の花を画《か》いていた。
悟浄《ごじょう》がこの庵室《あんしつ》を去る四、五日前のこと、少年は朝、庵《いおり》を出たっきりでもどって来なかった。彼といっしょに出ていった一人の弟子は不思議な報告をした。自分が油断をしているひまに、少年はひょい[#「ひょい」に傍点]と水に溶けてしまったのだ、自分は確かにそれを見た、と。他の弟子たちはそんなばかなことがと笑ったが、師の蒲衣子《ほいし》はまじめにそれをうべなった。そうかもしれぬ、あの児《こ》ならそんなことも起こるかもしれぬ、あまりに純粋だったから、と。
悟浄は、自分を取って喰《く》おうとした鯰《なまず》の妖怪《ばけもの》の逞《たくま》しさと、水に溶け去った少年の美しさとを、並べて考えながら、蒲衣子のもとを辞した。
蒲衣子の次に、渠《かれ》は斑衣※[#「魚+厥」、148
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