のじゃ。この間も、四人で笑うて話したことがある。わしらは、無をもって首《かしら》とし、生をもって背とし、死をもって尻《しり》としとるわけじゃとな。アハハハ……。」
気味の悪い笑い声にギョッとしながらも、悟浄は、この乞食こそあるいは真人《しんじん》というものかもしれんと思うた。この言葉が本物《ほんもの》だとすればたいしたものだ。しかし、この男の言葉や態度の中にどこか誇示的なものが感じられ、それが苦痛を忍んでむりに壮語しているのではないかと疑わせたし、それに、この男の醜さと膿《うみ》の臭《くさ》さとが悟浄に生理的な反撥《はんぱつ》を与えた。渠《かれ》はだいぶ心を惹《ひ》かれながらも、ここで乞食《こじき》に仕えることだけは思い止まった。ただ先刻の話の中にあった女※[#「人べん+禹」、144−7]氏とやらについて教えを乞《こ》いたく思うたので、そのことを洩《も》らした。
「ああ、師父《しふ》か。師父はな、これより北の方《かた》、二千八百里、この流沙河《りゅうさが》が赤水《せきすい》・墨水《ぼくすい》と落合うあたりに、庵《いおり》を結んでおられる。お前さんの道心《どうしん》さえ堅固なら、ずいぶんと、教訓《おしえ》も垂れてくだされよう。せっかく修業なさるがよい。わしからもよろしくと申上げてくだされい。」と、みじめな佝僂《せむし》は、尖《とが》った肩を精一杯いから[#「いから」に傍点]せて横柄《おうへい》に言うた。
四
流沙河と墨水と赤水との落合う所を目指して、悟浄《ごじょう》は北へ旅をした。夜は葦間《あしま》に仮寝《かりね》の夢を結び、朝になれば、また、果《はて》知らぬ水底の砂原を北へ向かって歩み続けた。楽しげに銀鱗《ぎんりん》を翻《ひるが》えす魚族《いろくず》どもを見ては、何故《なにゆえ》に我一人かくは心|怡《たの》しまぬぞと思い侘《わ》びつつ、渠《かれ》は毎日歩いた。途中でも、目ぼしい道人《どうじん》修験者《しゅげんしゃ》の類は、剰《あま》さずその門を叩《たた》くことにしていた。
貪食《どんしょく》と強力とをもって聞こえる※[#「虫+糾のつくり」、第4水準2−87−27]髯鮎子《きゅうぜんねんし》を訪ねたとき、色あくまで黒く、逞《たくま》しげな、この鯰《なまず》の妖怪《ばけもの》は、長髯《ちょうぜん》をしごきながら「遠き慮《おもんばかり》のみすれば、必ず近き憂《うれ》いあり。達人《たつじん》は大観せぬものじゃ。」と教えた。「たとえばこの魚じゃ。」と、鮎子《ねんし》は眼前を泳ぎ過ぎる一尾の鯉《こい》を掴《つか》み取ったかと思うと、それをムシャムシャかじりながら、説くのである。「この魚だが、この魚が、なぜ、わし[#「わし」に傍点]の眼の前を通り、しかして、わし[#「わし」に傍点]の餌《え》とならねばならぬ因縁《いんねん》をもっているか、をつくづくと考えてみることは、いかにも仙哲《せんてつ》にふさわしき振舞いじゃが、鯉を捕える前に、そんなことをくどくどと考えておった日には、獲物は逃げて行くばっかりじゃ。まずすばやく鯉を捕え、これにむしゃぶりついてから、それを考えても遅うはない。鯉は何故《なにゆえ》に鯉なりや、鯉と鮒《ふな》との相異についての形而上《けいじじょう》学的考察、等々の、ばかばかしく高尚《こうしょう》な問題にひっかかって、いつも鯉を捕えそこなう男じゃろう、お前《まえ》は。おまえの物憂《ものう》げな眼《め》の光が、それをはっきり[#「はっきり」に傍点]告げとるぞ。どうじゃ。」確かにそれに違いないと、悟浄は頭を垂れた。妖怪はそのときすでに鯉を平げてしまい、なお貪婪《どんらん》そうな眼つきを悟浄のうなだれた頸筋《くびすじ》に注《そそ》いでおったが、急に、その眼が光り、咽喉《のど》がゴクリと鳴った。ふと首を上げた悟浄は、咄嗟《とっさ》に、危険なものを感じて身を引いた。妖怪の刃のような鋭い爪《つめ》が、恐ろしい速さで悟浄の咽喉をかすめた。最初の一撃にしくじった妖怪の怒りに燃えた貪食《どんしょく》的な顔が大きく迫ってきた。悟浄は強く水を蹴《け》って、泥煙を立てるとともに、愴惶《そうこう》と洞穴を逃れ出た。苛刻《かこく》な現実精神をかの獰猛《どうもう》な妖怪から、身をもって学んだわけだ、と、悟浄は顫《ふる》えながら考えた。
隣人愛の教説者として有名な無腸公子《むちょうこうし》の講筵《こうえん》に列したときは、説教半ばにしてこの聖僧が突然|饑《う》えに駆られて、自分の実の子(もっとも彼は蟹《かに》の妖精《ようせい》ゆえ、一度に無数の子供を卵からかえすのだが)を二、三人、むしゃむしゃ喰《た》べてしまったのを見て、仰天《ぎょうてん》した。
慈悲忍辱《じひにんにく》を説く聖者が、今、衆人環視の中で自分の子を捕えて食った。そ
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