悟浄出世
中島敦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)流沙河《りゅうさが》の河底

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)独言|悟浄《ごじょう》と呼んだ

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「人べん+爾」、第3水準1−14−45]
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寒蝉敗柳《かんせんはいりゅう》に鳴き大火西に向かいて流るる秋のはじめになりければ心細くも三蔵《さんぞう》は二人の弟子にいざなわれ嶮難《けんなん》を凌《しの》ぎ道を急ぎたもうに、たちまち前面に一条の大河あり。大波|湧返《わきかえ》りて河の広さそのいくばくという限りを知らず。岸に上りて望み見るときかたわらに一つの石碑あり。上に流沙河《りゅうさが》の三字を篆字《てんじ》にて彫付け、表に四行の小|楷字《かいじ》あり。

 八百流沙界《はちひゃくりゅうさのかい》
 三千弱水深《さんぜんじゃくすいふかし》
 鵞毛飄不起《がもうただよいうかばず》
 蘆花定底沈《ろかそこによどみてしずむ》
[#地から1字上げ]――西遊記――
[#ここで字下げ終わり]

       一

 そのころ流沙河《りゅうさが》の河底に栖《す》んでおった妖怪《ばけもの》の総数およそ一万三千、なかで、渠《かれ》ばかり心弱きはなかった。渠《かれ》に言わせると、自分は今までに九人の僧侶《そうりょ》を啖《く》った罰で、それら九人の骸顱《しゃれこうべ》が自分の頸《くび》の周囲《まわり》について離れないのだそうだが、他の妖怪《ばけもの》らには誰にもそんな骸顱《しゃれこうべ》は見えなかった。「見えない。それは※[#「人べん+爾」、第3水準1−14−45]《おまえ》の気の迷いだ」と言うと、渠《かれ》は信じがたげな眼で、一同を見返し、さて、それから、なぜ自分はこうみんなと違うんだろうといったふうな悲しげな表情に沈むのである。他の妖怪《ばけもの》らは互いに言合うた。「渠《あいつ》は、僧侶《そうりょ》どころか、ろくに人間さえ咋《く》ったことはないだろう。誰もそれを見た者がないのだから。鮒《ふな》やざこ[#「ざこ」に傍点]を取って喰っているのなら見たこともあるが」と。また彼らは渠《かれ》に綽名《あだな》して、独言悟浄《どくげ
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