んごじょう》と呼んだ。渠《かれ》が常に、自己に不安を感じ、身を切刻む後悔に苛《さいな》まれ、心の中で反芻《はんすう》されるその哀《かな》しい自己|苛責《かしゃく》が、つい独《ひと》り言となって洩《も》れるがゆえである。遠方から見ると小さな泡《あわ》が渠《かれ》の口から出ているにすぎないようなときでも、実は彼が微《かす》かな声で呟《つぶや》いているのである。「俺《おれ》はばかだ」とか、「どうして俺はこうなんだろう」とか、「もうだめだ。俺は」とか、ときとして「俺は堕天使《だてんし》だ」とか。
 当時は、妖怪に限らず、あらゆる生きものはすべて何かの生まれかわり[#「生まれかわり」に傍点]と信じられておった。悟浄がかつて天上界《てんじょうかい》で霊霄殿《りょうしょうでん》の捲簾《けんれん》大将を勤めておったとは、この河底で誰言わぬ者もない。それゆえすこぶる懐疑的な悟浄自身も、ついにはそれを信じておるふりをせねばならなんだ。が、実をいえば、すべての妖怪《ばけもの》の中で渠《かれ》一人はひそかに、生まれかわりの説に疑いをもっておった。天上界で五百年前に捲簾大将をしておった者が今の俺になったのだとして、さて、その昔の捲簾大将と今のこの俺とが同じものだといっていいのだろうか? 第一、俺は昔の天上界のことを何一つ記憶してはおらぬ。その記憶以前の捲簾大将と俺と、どこが同じなのだ。身体《からだ》が同じなのだろうか? それとも魂が、だろうか? ところで、いったい、魂とはなんだ? こうした疑問を渠《かれ》が洩《も》らすと、妖怪《ばけもの》どもは「また、始まった」といって嗤《わら》うのである。あるものは嘲弄《ちょうろう》するように、あるものは憐愍《れんびん》の面持ちをもって「病気なんだよ。悪い病気のせいなんだよ」と言うた。

 事実、渠《かれ》は病気だった。
 いつのころから、また、何が因《もと》でこんな病気になったか、悟浄《ごじょう》はそのどちらをも知らぬ。ただ、気がついたらそのときはもう、このような厭《いと》わしいものが、周囲に重々しく立罩《たちこ》めておった。渠は何をするのもいやになり、見るもの聞くものがすべて渠の気を沈ませ、何事につけても自分が厭《いと》わしく、自分に信用がおけぬようになってしもうた。何日も何日も洞穴《ほらあな》に籠《こも》って、食を摂《と》らず、ギョロリと眼ばかり光ら
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