んじ》のごときは、これを至極《しごく》の増上慢といわずしてなんといおうぞ。爾の求むるところは、阿羅漢《あらかん》も辟支仏《びゃくしぶつ》もいまだ求むる能《あた》わず、また求めんともせざるところじゃ。哀れな悟浄よ。いかにして爾の魂はかくもあさましき迷路に入ったぞ。正観を得れば浄業《じょうごう》たちどころに成るべきに、爾、心相羸劣《しんそうるいれつ》にして邪観《じゃかん》に陥り、今この三途無量《さんずむりょう》の苦悩に遭《あ》う。惟《おも》うに、爾《なんじ》は観想《かんそう》によって救わるべくもないがゆえに、これよりのちは、一切の思念を棄《す》て、ただただ身を働かすことによってみずからを救おうと心がけるがよい。時とは人の作用《はたらき》の謂《いい》じゃ。世界は、概観によるときは無意味のごとくなれども、その細部に直接働きかけるときはじめて無限の意味を有《も》つのじゃ。悟浄よ。まずふさわしき場所に身を置き、ふさわしき働きに身を打込め。身の程知らぬ『何故』は、向後《こうご》一切打捨てることじゃ。これをよそにして、爾の救いはないぞ。さて、今年の秋、この流沙河《りゅうさが》を東から西へと横切る三人の僧があろう。西方|金蝉《きんせん》長老の転生《うまれかわり》、玄奘法師《げんじょうほうし》と、その二人の弟子どもじゃ。唐《とう》の太宗皇帝《たいそうこうてい》の綸命《りんめい》を受け、天竺国《てんじくこく》大雷音寺《だいらいおんじ》に大乗三蔵《だいじょうさんぞう》の真経《しんぎょう》をとらんとて赴《おもむ》くものじゃ。悟浄よ、爾《なんじ》も玄奘に従うて西方に赴《おもむ》け。これ爾にふさわしき位置《ところ》にして、また、爾にふさわしき勤めじゃ。途《みち》は苦しかろうが、よく、疑わずして、ただ努めよ。玄奘の弟子の一人に悟空《ごくう》なるものがある。無知無識にして、ただ、信じて疑わざるものじゃ。爾は特にこの者について学ぶところが多かろうぞ。」
 悟浄がふたたび頭をあげたとき、そこには何も見えなかった。渠《かれ》は茫然《ぼうぜん》と水底の月明の中に立ちつくした。妙な気持である。ぼんやりした頭の隅で、渠は次のようなことをとりとめ[#「とりとめ」に傍点]もなく考えていた。
「……そういうことが起こりそうな者に、そういうことが起こり、そういうことが起こりそうなときに、そういうことが起こるんだな。半年
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