えることが悪いとは言えないのであって、考えない者の幸福は、船酔いを知らぬ豚のようなものだが、ただ考えることについて考えることだけは禁物であるということについて」
 女※[#「人べん+禹」、152−14]氏は、自分のかつて識《し》っていた、ある神智を有する魔物のことを話した。その魔物は、上は星辰《せいしん》の運行から、下は微生物類の生死に至るまで、何一つ知らぬことなく、深甚微妙《しんじんみみょう》な計算によって、既往のあらゆる出来事を溯《さかのぼ》って知りうるとともに、将来起こるべきいかなる出来事をも推知しうるのであった。ところが、この魔物はたいへん不幸だった。というのは、この魔物があるときふと、「自分のすべて予見しうる全世界の出来事が、何故《なにゆえ》に(経過的ないかにして[#「いかにして」に傍点]ではなく、根本的な何故に[#「何故に」に傍点])そのごとく起こらねばならぬか」ということに想到し、その究極の理由が、彼の深甚微妙なる大計算をもってしてもついに探《さが》し出せないことを見いだしたからである。何故|向日葵《ひまわり》は黄色いか。何故草は緑か。何故すべてがかく在《あ》るか。この疑問が、この神通力《じんずうりき》広大な魔物を苦しめ悩ませ、ついに惨《みじ》めな死にまで導いたのであった。
 女※[#「人べん+禹」、153−5]《じょう》氏はまた、別の妖精《ようせい》のことを話した。これはたいへん小さなみすぼらしい魔物だったが、常に、自分はある小さな鋭く光ったものを探しに生まれてきたのだと言っていた。その光るものとはどんなものか、誰にも解らなかったが、とにかく、小妖精《しょうようせい》は熱心にそれを求め、そのために生き、そのために死んでいったのだった。そしてとうとう、その小さな鋭く光ったものは見つからなかったけれど、その小妖精の一生はきわめて幸福なものだったと思われると女※[#「人べん+禹」、153−9]氏は語った。かく語りながら、しかし、これらの話のもつ意味については、なんの説明もなかった。ただ、最後に、師は次のようなことを言った。
「聖なる狂気を知る者は幸いじゃ。彼はみずからを殺すことによって、みずからを救うからじゃ。聖なる狂気を知らぬ者は禍《わざわ》いじゃ。彼は、みずからを殺しも生かしもせぬことによって、徐々に亡びるからじゃ。愛するとは、より高貴な理解のしかた。
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