したが。」
 悟浄の醜さを憐《あわ》れむような眼《め》つきをしながら、最後に※[#「魚+厥」、149−18]婆《けつば》はこうつけ加えた。
「徳とはね、楽しむことのできる能力のことですよ。」
 醜いがゆえに、毎年死んでいく百人の仲間に加わらないで済んだことを感謝しつつ、悟浄はなおも旅を続けた。

 賢人《けんじん》たちの説くところはあまりにもまちまちで、渠《かれ》はまったく何を信じていいやら解らなかった。
「我とはなんですか?」という渠の問いに対して、一人の賢者はこういった。「まず吼《ほ》えてみろ。ブウと鳴くようならお前は豚じゃ。ギャアと鳴くようなら鵝鳥《がちょう》じゃ」と。他の賢者はこう教えた。「自己とはなんぞやとむりに言い表わそうとさえしなければ、自己を知るのは比較的困難ではない」と。また、曰《いわ》く「眼は一切を見るが、みずからを見ることができない。我とは所詮《しょせん》、我の知る能《あた》わざるものだ」と。
 別の賢者は説いた、「我はいつも我だ。我の現在の意識の生ずる以前の・無限の時を通じて我といっていたものがあった。(それを誰も今は、記憶していないが)それがつまり今の我になったのだ。現在の我の意識が亡《ほろ》びたのちの無限の時を通じて、また、我というものがあるだろう。それを今、誰も予見することができず、またそのときになれば、現在の我の意識のことを全然忘れているに違いないが」と。
 次のように言った男もあった。「一つの継続した我とはなんだ? それは記憶の影の堆積《たいせき》だよ」と。この男はまた悟浄にこう教えてくれた。「記憶の喪失ということが、俺《おれ》たちの毎日していることの全部だ。忘れてしまっていることを忘れてしまっているゆえ、いろんなことが新しく感じられるんだが、実は、あれは、俺たちが何もかも徹底的に忘れちまうからのことなんだ。昨日のことどころか、一瞬間前のことをも、つまりそのときの知覚、そのときの感情をも何もかも次の瞬間には忘れちまってるんだ。それらの、ほんの僅《わず》か一部の、朧《おぼろ》げな複製があとに残るにすぎないんだ。だから、悟浄よ、現在の瞬間てやつは、なんと、たいしたものじゃないか」と。

 さて、五年に近い遍歴《へんれき》の間、同じ容態に違った処方をする多くの医者たちの間を往復するような愚かさを繰返したのち、悟浄《ごじょう》は結局自分が少
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