。五十日後でなければ、それがふたたび開かれることがないであろうことを知っていた悟浄は、睡れる先生に向かって恭々《うやうや》しく頭を下げてから、立去った。

「恐れよ。おののけ。しかして、神を信ぜよ。」
 と、流沙河《りゅうさが》の最も繁華な四つ辻《つじ》に立って、一人の若者が叫んでいた。
「我々の短い生涯《しょうがい》が、その前とあととに続く無限の大永劫《だいえいごう》の中に没入していることを思え。我々の住む狭い空間が、我々の知らぬ・また我々を知らぬ・無限の大広袤《だいこうぼう》の中に投込まれていることを思え。誰か、みずからの姿の微小さに、おののかずにいられるか。我々はみんな鉄鎖に繋《つな》がれた死刑囚だ。毎瞬間ごとにその中の幾人かずつが我々の面前で殺されていく。我々はなんの希望もなく、順番を待っているだけだ。時は迫っているぞ。その短い間を、自己|欺瞞《ぎまん》と酩酊《めいてい》とに過ごそうとするのか? 呪《のろ》われた卑怯者《ひきょうもの》め! その間を汝《なんじ》の惨《みじ》めな理性を恃《たの》んで自惚《うぬぼ》れ返っているつもりか? 傲慢《ごうまん》な身の程《ほど》知らずめ! 噴嚏《くしゃみ》一つ、汝の貧しい理性と意志とをもってしては、左右できぬではないか。」
 白皙《はくせき》の青年は頬《ほお》を紅潮させ、声を嗄《か》らして叱咤《しった》した。その女性的な高貴な風姿のどこに、あのような激しさが潜んでいるのか。悟浄は驚きながら、その燃えるような美しい瞳《ひとみ》に見入った。渠《かれ》は青年の言葉から火のような聖《きよ》い矢が自分の魂に向かって放たれるのを感じた。
「我々の為《な》しうるのは、ただ神を愛し己《おのれ》を憎むことだけだ。部分は、みずからを、独立した本体だと自惚《うぬぼ》れてはならぬ。あくまで、全体の意志をもって己の意志とし、全体のためにのみ、自己を生きよ。神に合するものは一つの霊となるのだ」
 確かにこれは聖《きよ》く優《すぐ》れた魂の声だ、と悟浄は思い、しかし、それにもかかわらず、自分の今|饑《う》えているものが、このような神の声でないことをも、また、感ぜずにはいられなかった。訓言《おしえ》は薬のようなもので、※[#「やまいだれ+亥」、第3水準1−88−46]瘧《おこり》を病む者の前に※[#「やまいだれ+重」、第4水準2−81−58]腫《はれもの
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