放った。」……「春景色」(川端康成)
「栗毛の馬の平原は狂人をのせてうねりながら、黒い地平線をつくって、潮のように没落へと溢れて行った。」……「ナポレオンと田虫」(横光利一)
 鏡花氏も、単に、その感覚の新鮮と表現の斬新とから見るならば、決して、之等の新感覚派の人々に劣らないのである。
『時雨に真蒼なのは蒼鬣魚《かわはぎ》の鰭である。形は小さいが、三十枚ばかりずつ幾山にも並べた、あの暗灰色の菱形の魚を三角形に積んで、下積になったのは軒下の石に藍を流して、上の方は浜の砂をざらざらとそのままだから、海の底のピラミッドを影で覗く鮮しさがある。』(卵塔場の天女)
『汽車はもう遠くの方で、名物焼蛤の白い煙を夢のように月下に吐いて、真蒼な野路を光って通る。』(歌行燈)なぞ、以下例を挙げれば限りもないが、決して新感覚派の人達に比して遜色ないと思われる。但し、横光氏等の当時の作品には、鏡花氏には見られない、作品全体の(もしくは、その中の一つの情景の)構成[#「構成」に二重丸傍点]それ自らの中の新しさというものがあった。
『父が突然死んで了った。私は海峡を渡るとバナナを四日間たべつづけて、まだ知らぬ街ま
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