、病人はいら立って涙を流しながら、痩せ衰えた手で傍の剣を指し、杜洩に「これであの男を殺せ。殺せ、早く!」と叫ぶ。どうしても自分が狂者としてしか扱われないことを知ると叔孫は衰え切った身体を顫わせて号泣する。杜洩は牛と目を見合せ、眉をしかめながら、そっと室を出る。客が去ってから始めて、牛男の顔に会体《えたい》の知れぬ笑が微《かす》かに浮かぶ。
 餓と疲れの中に泣きながら、いつか病人はうとうとして夢を見た。いや、眠ったのではなく、幻覚を見ただけかも知れぬ。重苦しく淀んだ・不吉な予感に充ちた部屋の空気の中に、ただ一つ灯が音も無く燃えている。輝きの無い・いやに白っぽい光である。じっとそれを見ている中に、ひどく遠方に――十里も二十里も彼方にあるもののように感じられて来る。寝ている真上の天井が、いつかの夢の時と同じように、徐々に下降を始める。ゆっくりと、しかし確実に、上からの圧迫は加わる。逃れようにも足一つ動かせない。傍を見ると黒い牛男が立っている。救を求めても、今度は手を伸べてくれない。黙ってつッ立ったままにやり[#「にやり」に傍点]と笑う。絶望的な哀願をもう一度繰返すと、急に、慍《おこ》ったよう
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