向いたままどうしても動けない。見えるはずはないのに、天井の上を真黒な天が盤石《ばんじゃく》の重さで押しつけているのが、はっきり[#「はっきり」に傍点]判る。いよいよ天井が近づき、堪え難い重みが胸を圧した時、ふと横を見ると、一人の男が立っている。恐ろしく色の黒い傴僂で、眼が深く凹《くぼ》み、獣のように突出た口をしている。全体が、真黒な牛に良く似た感じである。牛! 余《われ》を助けよ、と思わず救を求めると、その黒い男が手を差伸べて、上からのし掛かる無限の重みを支えてくれる。それからもう一方の手で胸の上を軽く撫《な》でてくれると、急に今までの圧迫感が失《なくな》ってしまった。ああ、良かった、と思わず口に出したとき、目が醒《さ》めた。
翌朝、従者下僕らを集めて一々|検《しら》べて見たが、夢の中の牛男《うしおとこ》に似た者は誰もいない。その後も斉の都に出入する人々について、それとなく気を付けて見るが、それらしい人相の男には絶えて出会わない。
数年後、再び故国に政変が起り、叔孫豹は家族を斉に残して急遽帰国した。後、大夫として魯の朝《ちょう》に立つに及んで、初めて妻子を呼ぼうとしたが、妻は既に斉
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