牛人
中島敦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)魯の叔孫豹《しゅくそんひょう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)乱を避けて一時|斉《せい》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)日にち[#「日にち」に傍点]を指定する。
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魯の叔孫豹《しゅくそんひょう》がまだ若かった頃、乱を避けて一時|斉《せい》に奔《はし》ったことがある。途《みち》に魯の北境|庚宗《こうそう》の地で一美婦を見た。俄《にわ》かに懇《ねんご》ろとなり、一夜を共に過して、さて翌朝別れて斉に入った。斉に落着き大夫《たいふ》国氏《こくし》の娘を娶《めと》って二児を挙げるに及んで、かつての路傍一夜の契《ちぎり》などはすっかり忘れ果ててしまった。
或夜、夢を見た。四辺《あたり》の空気が重苦しく立罩《たちこ》め不吉な予感が静かな部屋の中を領している。突然、音も無く室の天井が下降し始める。極めて徐々に、しかし極めて確実に、それは少しずつ降りてくる。一刻ごとに部屋の空気が濃く淀《よど》み、呼吸が困難になってくる。逃げようともがくのだが、身体は寝床の上に仰向いたままどうしても動けない。見えるはずはないのに、天井の上を真黒な天が盤石《ばんじゃく》の重さで押しつけているのが、はっきり[#「はっきり」に傍点]判る。いよいよ天井が近づき、堪え難い重みが胸を圧した時、ふと横を見ると、一人の男が立っている。恐ろしく色の黒い傴僂で、眼が深く凹《くぼ》み、獣のように突出た口をしている。全体が、真黒な牛に良く似た感じである。牛! 余《われ》を助けよ、と思わず救を求めると、その黒い男が手を差伸べて、上からのし掛かる無限の重みを支えてくれる。それからもう一方の手で胸の上を軽く撫《な》でてくれると、急に今までの圧迫感が失《なくな》ってしまった。ああ、良かった、と思わず口に出したとき、目が醒《さ》めた。
翌朝、従者下僕らを集めて一々|検《しら》べて見たが、夢の中の牛男《うしおとこ》に似た者は誰もいない。その後も斉の都に出入する人々について、それとなく気を付けて見るが、それらしい人相の男には絶えて出会わない。
数年後、再び故国に政変が起り、叔孫豹は家族を斉に残して急遽帰国した。後、大夫として魯の朝《ちょう》に立つに及んで、初めて妻子を呼ぼうとしたが、妻は既に斉
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