の大夫某と通じていて、一向夫の許に来ようとはしない。結局、二子|孟丙《もうへい》・仲壬《ちゅうじん》だけが父の所へ来た。
或朝、一人の女が雉《きじ》を手土産に訪ねて来た。始め叔孫の方ではすっかり見忘れていたが、話して行く中にすぐ判った。十数年前斉へ逃れる道すがら庚宗の地で契った女である。独りかと尋ねると、倅《せがれ》を連れて来ているという。しかも、あの時の叔孫の子だというのだ。とにかく、前に連れてこさせると、叔孫はアッと声に出した。色の黒い・目の凹んだ・傴僂なのだ。夢の中で己を助けた黒い牛男にそっくりである。思わず口の中で「牛!」と言ってしまった。するとその黒い少年が驚いた顔をして返辞をする。叔孫は一層驚いて、少年の名を問えば、「牛と申します」と答えた。
母子ともに即刻引取られ、少年は豎《じゅ》(小姓)の一人に加えられた。それ故、長じて後もこの牛に似た男は豎牛《じゅぎゅう》と呼ばれるのである。容貌に似合わず小才の利く男で、すこぶる役には立つが、いつも陰鬱《いんうつ》な顔をして少年仲間の戯れにも加わらぬ。主人以外の者には笑顔一つ見せない。叔孫にはひどく可愛がられ、長じては叔孫家の家政一切の切廻しをするようになった。
眼の凹んだ・口の突出た・黒い顔は、ごく偶《たま》に笑うとひどく滑稽な愛嬌《あいきょう》に富んだものに見える。こんな剽軽《ひょうきん》な顔付の男に悪企《わるだくみ》など出来そうもないという印象を与える。目上の者に見せるのはこの顔だ。仏頂面をして考え込む時の顔は、ちょっと人間離れのした怪奇な残忍さを呈する。儕輩《さいはい》の誰彼が恐れるのはこの顔だ。意識しないでも自然にこの二つの顔の使い分けが出来るらしい。
叔孫豹の信任は無限であったが、後嗣《あとつぎ》に直そうとは思っていない。秘事ないし執事としては無類と考えていたが、魯の名家の当主とは、その人品からしてもちょっと考えにくいのである。豎牛ももちろんそれは心得ている。叔孫の息子たち、殊に斉から迎えられた孟丙・仲壬の二人に向かっては、常に慇懃《いんぎん》を極めた態度をとっている。彼らの方では、幾分の不気味さと多分の軽蔑とをこの男に感じているだけだ。父の寵《ちょう》の厚いのに大して嫉妬《しっと》を覚えないのは、人柄の相違というものに自信をもっているからであろう。
魯の襄公《じょうこう》が死んで若い昭公
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