今までの習慣でこの男の手を経ないでは誰一人呼べないことになっている。その夜病大夫は殺した孟丙のことを思って口惜し泣きに泣いた。
 次の日から残酷な所作が始まる。病人が人に接するのを嫌うからとて、食事は膳部《ぜんぶ》の者が次室まで運んで置き、それを豎牛が病人の枕頭に持って来るのが慣わしであったのを、今やこの侍者が病人に食を進めなくなったのである。差出される食事はことごとく自分が喰ってしまい、から[#「から」に傍点]だけをまた出して置く。膳部の者は叔孫が喰べたことと思っている。病人が餓を訴えても、牛男は黙って冷笑するばかり。返辞さえもはやしなくなった。誰に助を求めようにも、叔孫には絶えて手段が無いのである。
 たまたまこの家の宰《さい》たる杜洩《とせつ》が見舞に来た。病人は杜洩に向って豎牛の仕打を訴えるが、日頃の信任を承知している杜洩は冗談と考えててんで[#「てんで」に傍点]取合わない。叔孫がなおも余り真剣に訴えると、今度は熱病のため心神が錯乱したのではないかと、いぶかる風である。豎牛もまた横から杜洩に目配《めくばせ》して、頭の惑乱した病者にはつくづく困り果てたという表情を見せる。しまいに、病人はいら立って涙を流しながら、痩せ衰えた手で傍の剣を指し、杜洩に「これであの男を殺せ。殺せ、早く!」と叫ぶ。どうしても自分が狂者としてしか扱われないことを知ると叔孫は衰え切った身体を顫わせて号泣する。杜洩は牛と目を見合せ、眉をしかめながら、そっと室を出る。客が去ってから始めて、牛男の顔に会体《えたい》の知れぬ笑が微《かす》かに浮かぶ。
 餓と疲れの中に泣きながら、いつか病人はうとうとして夢を見た。いや、眠ったのではなく、幻覚を見ただけかも知れぬ。重苦しく淀んだ・不吉な予感に充ちた部屋の空気の中に、ただ一つ灯が音も無く燃えている。輝きの無い・いやに白っぽい光である。じっとそれを見ている中に、ひどく遠方に――十里も二十里も彼方にあるもののように感じられて来る。寝ている真上の天井が、いつかの夢の時と同じように、徐々に下降を始める。ゆっくりと、しかし確実に、上からの圧迫は加わる。逃れようにも足一つ動かせない。傍を見ると黒い牛男が立っている。救を求めても、今度は手を伸べてくれない。黙ってつッ立ったままにやり[#「にやり」に傍点]と笑う。絶望的な哀願をもう一度繰返すと、急に、慍《おこ》ったよう
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