ネいたましさ[#「いたましさ」に傍点]を再び感じたことも事実である。但し、この場合もまた、そのいたましさ[#「いたましさ」に傍点]が、純白のドレスに対してやら、それを着けた当人に対してやら、はっきりしなかったのだが。
彼女の盛装姿を見てから二、三日後のこと、私が宿舎の部屋で本を読んでいると、外で、聞いたことのあるような口笛の音がする。窓から覗くと、すぐ傍《そば》のバナナ畑の下草をマリヤンが刈取っているのだ。島民女に時々課せられるこの町の勤労奉仕に違いない。マリヤンの外にも、七、八人の島民女が鎌を手にして草の間にかがんでいる。口笛は別に私を呼んだのではないらしい。(マリヤンはH氏の部屋にはいつも行くが、私の部屋は知らないはずである。)マリヤンは私に見られていることも知らずにせっせ[#「せっせ」に傍点]と刈っている。この間の盛装に比べて今日はまたひどいなりをしている。色の褪《あ》せた、野良仕事用のアッパッパに、島民並の跣足《はだし》である。口笛は、働きながら、時々自分でも気が付かずに吹いているらしい。側の大籠に一杯刈り溜めると、かがめていた腰を伸ばして、此方に顔を向けた。私を認めるとニッと笑ったが、別に話しにも来ない。てれ隠し[#「てれ隠し」に傍点]のようにわざと大きな掛声を「ヨイショ」と掛けて、大籠を頭上に載せ、そのままさよなら[#「さよなら」に傍点]も言わずに向うへ行ってしまった。
去年の大晦日《おおみそか》の晩、それは白々とした良い月夜だったが、私たちは――H氏と私とマリヤンとは、涼しい夜風に肌をさらしながら街を歩いた。夜半までそうして時を過ごし、十二時になると同時に南洋神社に初詣でをしようというのである。私たちはコロール波止場の方へ歩いて行った。波止場の先にプールが出来ているのだが、そのプールの縁に我々は腰を下した。
相当な年輩のくせにひどく歌の好きなH氏が大声を上げて、色んな歌を――主に氏の得意な様々のオペラの中の一節だったが――唱った。マリヤンは口笛ばかり吹いていた。厚い大きな唇を丸くとんがらせて吹くのである。彼女のは、そんなむずかしいオペラなんぞではなく、大抵フォスターの甘い曲ばかりである。聞きながら、ふと、私は、それらが元々北米の黒人どもの哀しい歌だったことを憶い出した。
何のきっかけ[#「きっかけ」に傍点]からだったか、突然、H氏がマリヤンに言った。
「マリヤン! マリヤン!(氏がいやに大きな声を出したのは、家を出る時ちょっと引掛けて来た合成酒のせいに違いない)マリヤンが今度お婿さんを貰うんだったら、内地の人でなきゃ駄目だなあ。え? マリヤン!」
「フン」と厚い唇の端をちょっとゆがめたきり、マリヤンは返辞をしないで、プールの面を眺めていた。月はちょうど中天に近く、従って海は退潮なので、海と通じているこのプールはほとんど底の石が現れそうなほど水がなくなっている。しばらくして、私が先刻のH氏の話のつづきを忘れてしまった頃、マリヤンが口を切った。
「でもねえ、内地の男の人はねえ、やっぱりねえ。」
なんだ。こいつ、やっぱり先刻からずっと、自分の将来の再婚のことを考えていたのかと急に私は可笑しくなって、大きな声で笑い出した。そうして、なおも笑いながら「やっぱり内地の男は、どうなんだい? え?」と聞いた。笑われたのに腹を立てたのか、マリヤンは外《そ》っぽを向いて、何も返辞をしなかった。
この春、偶然にもH氏と私とが揃って一時[#「一時」に傍点]内地へ出掛けることになった時、マリヤンは鶏をつぶして最後のパラオ料理の御馳走をしてくれた。
正月以来絶えて口にしなかった肉の味に舌鼓《したつづみ》を打ちながら、H氏と私とが「いずれまた秋頃までには帰って来るよ」(本当に、二人ともその予定だったのだ)と言うと、マリヤンが笑いながら言うのである。
「おじさん[#「おじさん」に傍点]はそりゃ半分以上島民なんだから、また戻って来るでしょうけれど、トンちゃん(困ったことに彼女は私のことをこう呼ぶのだ。H氏の呼び方を真似たのである。初めは少し腹を立てたが、しまいには閉口して苦笑する外は無かった)はねえ。」
「あてにならないというのかい?」と言えば、「内地の人といくら友達になっても、一ぺん内地へ帰ったら二度と戻って来た人は無いんだものねえ」と珍しくしみじみと言った。
我々が内地へ帰ってから、H氏の所へ二、三回マリヤンから便りがあったそうである。その都度トンちゃんの消息を聞いて来ているという。
私はといえば、実は、横浜へ上陸するや否や、たちまち寒さにやられて風邪をひき、それがこじれて肋膜《ろくまく》になってしまったのである。再び彼の地の役所に戻ることは、到底|覚束無《おぼつかな》い。
H氏も最近偶然結婚(随分晩婚だが)の話がまとまり、東京に落着くこととなった。もちろん、南洋土俗研究に一生を捧げた氏のこと故、いずれはまた向うへも調査には出掛けることがあるだろうが、それにしても、マリヤンの予期していたように彼の地に永住することはなくなった訳だ。
マリヤンが聞いたら何というだろうか?
[#改ページ]
風物抄
※[#ローマ数字1、1−13−21]
[#地から5字上げ]クサイ
朝、目が覚めると、船は停っている様子である。すぐに甲板に上って見る。
船は既に二つの島の間にはいり込んでいた。細かい雨が降っている。今まで見て来た南洋群島の島々とはおよそ変った風景である。少くとも、今甲板から眺めるクサイの島は、どう見ても、ゴーガンの画題ではない。細雨に烟《けむ》る長汀《ちょうてい》や、模糊《もこ》として隠見する翠《みどり》の山々などは、確かに東洋の絵だ。一汀煙雨杏花寒とか、暮雲巻雨山娟娟とか、そんな讃がついていても一向に不自然に思われない・純然たる水墨的な風景である。
食堂で朝食を済ませてから、また甲板へ出て見ると、もう雨は霽《あが》っていたが、まだ、煙のような雲が山々の峡《はざま》を去来している。
八時、ランチでレロ島に上陸、すぐに警部補派出所に行く。この島には支庁が無く、この派出所で一切を扱っているのである。昔見た映画の「罪と罰」の中の刑事のような・顔も身体も共に横幅の広い警部補が一人、三人の島民巡警を使って事務をとっていた。公学校視察のために来たのだと言うと、すぐに巡警を案内につけてくれた。
公学校に着くと、背の低い・小肥《こぶと》りに肥った・眼鏡の奥から商人風の抜目の無さそうな(絶えず相手の表情を観察している)目を光らせた・短い口髭《くちひげ》のある・中年の校長が、何か不埒《ふらち》なものでも見るような態度で、私を迎えた。
教室は一棟三室、その中の一室は職員室にあててある。此処《ここ》は初等課だけだから三年までである。門をはいるや否や、色の浅黒い(といっても、カロリン諸島は東へ行くにつれて色の黒さが薄らいでくるように思われる)子供らが争って前に出て来ては、オハヨウゴザイマスと叮嚀《ていねい》に頭を下げる。
教員は校長に訓導一人と島民の教員補一人。但し、一人の訓導とは女で、しかも校長の奥さんである。
校長は授業を見られたくない様子だ。殊に己が妻の授業を。私もまた、それを強要して、心理的な機微を観察しようとするほど、意地が悪くはない。ただ、校長から、此処の島民児童の特徴や、永年の公学校教育の経験談でも聴くにとどめようと思った。ところが、私は、何を聞かねばならなかったか? 徹頭徹尾、私が先ほど会って来た・あの警部補の悪口ばかりを聞かされたのである。
此処ばかりには限らない。離島《りとう》で、巡査派出所と公学校と両方のある島では、必ず両者の軋轢《あつれき》がある。そういう島では、巡査と公学校長(校長ばかりで下に訓導のいない学校が甚だ多いので)と、島中でこの二人だけが日本人であり、且つ官吏であるので、自然勢力争いが起るのである。どちらか一方だけだと、小独裁者の専制になってかえって結果は良いのだが。
私は今までにも何回となくそれを見ては来たが、ここの校長のように初対面の者に向って、いきなりこう猛烈にやり出すのは、初めてであった。何の悪口ということはない。何から何までその警部補のする事はみんな悪いのである。魚釣(この湾内ではもろ鰺[#「もろ鰺」に傍点]が良く釣れるそうだが)の下手なのまでが讒謗《ざんぼう》の種子になろうとは、私も考えなかった。魚釣の話が一番|後《あと》に出たものだから、少し慌てて聞いていると、警部補は魚釣が下手故この島の行政事務を任せては置けないという風な論旨に取られかねないのである。聞いている中に、先ほどは何とも感じなかった・あの横幅の広い警部補に何だか好感が持てそうな気がして来た。
島を案内しようというのを断って公学校を退却すると、私は独りで、島民に道を聞きながら、「レロの遺跡」という名で知られている古代城郭の址《あと》を見に行った。今まで曇っていた空から陽が洩れ始め、島は急に熱帯的な相貌を帯びて来た。
海岸から折れて一丁も行かない中に、目指す石の塁壁《るいへき》にぶつかる。鬱蒼《うっそう》たる熱帯樹に蔽《おお》われ苔《こけ》に埋もれてはいるが、素晴らしく大きな玄武岩の構築物だ。
入口をはいってからがなかなか広い。苔で滑りやすい石畳路が紆余曲折《うよきょくせつ》して続く。室の跡らしいもの、井戸の形をしたものなどが、密生した羊歯《しだ》類の間に見え隠れする。塁壁の崩れか、所々に※[#「「壘」の「土」に代えて「糸」」、第3水準1−90−24]々《るいるい》たる石塊の山が積まれている。到る所に椰子《ヤシ》の実が落ち、或るものは腐り、或るものは三尺も芽を出している。道傍《みちばた》の水溜には鰕《えび》の泳いでいるのが見える。
ミクロネシヤにはもう一つ、ポナペ島にこれと同様な(更に大規模な)遺址《いし》があるが、共にこれを築いた人間も年代も判っていない。とにかく、その構築者が現住民族とは何の関係も無いものだということだけは通説となっているようだ。この石塁については何らまとまった伝説が無い上に、現住民族は石造建築について何等の興味も知識も持たぬのだし、またこれら巨大な岩石を何処《いずこ》よりか(この島にこういう石は無い)海上遠く持ち運ぶなどという技術は、彼らよりも遥かに比較を絶して高級な文明を有《も》つ人種でなければ不可能だからである。そういう文明をもった先住民族が何時《いつ》頃栄え、いつ頃亡び去ったか。或る人類学者は渺茫《びょうぼう》たる太平洋上に点在するこれらの遺址(ミクロネシヤのみならずポリネシヤにも相当に存在する。イースター島の如きは最も有名だが)を比較研究した後、遥かなる過去の一時期に西は埃及《エジプト》から東は米大陸に至るまでの広汎《こうはん》な地域を蔽うた共通の「古代文明の存在」を仮定する。そうして、その文明の特徴として、太陽崇拝、構築のための巨石使用、農耕灌漑その他を挙げる。こうした壮大な仮説は、私に、大変楽しい空想の翼を与える。私は、太古埃及から東漸した高度の文明を身につけた・勇敢な古代人の群を想像することが出来る。彼らは、真珠や黒耀石《こくようせき》を追い求めては、果てしない太平洋の真蒼な潮の上を、真紅な帆でも掛けて、恐らくは葦の茎の海図を使用しながら、あるいは、今でも我々の仰ぐオリオン星やシリウス星を頼りに、東へ東へと渡って行ったに違いない。そうして、愚昧《ぐまい》な原住民の驚嘆を前に、到る処に小ピラミッドやドルメンや環状|石籬《せきり》を築き、瘴※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]《しょうれい》な自然の中に己が強い意志と慾望との印を打建てたのであろう。……もちろん、この仮説の当否は、門外漢たる私に判る訳が無い。ただ私は今、眼前に、炎熱と颱風《たいふう》と地震との幾世紀の後、なお熱帯植物の繁茂の下に埋め尽されもせずにその謎のような存在を主張している巨石の堆積を見、また一方、巨石の運搬どころかごく簡単な農耕技術さえ知らぬ・低級な現住民の存
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