驍フだろう? 同じ南洋の官吏でいながら、まるで方面違いの、おまけにごく新米《しんまい》の私は、そんな事に全然無知だったので、少し訊ねて見たかったのだが、相手の機嫌を幾らか損じたらしい際でもあり、傍にいる島民巡警への顧慮も手伝って、それは控えることにした。
「昼頃にはS島に着くようなことを船長は言っとったが、この間みたいに半日も流されて、行過ぎとるなんてことがあるから、あてにはなりませんなあ。」
警官は話を換えて、そんなことを言い、伸びをしながら、眼を海の方に向けた。私もまたそれにつられて、何ということもなく、目を細くして眩《まぶ》しい海と空とを眺めた。
底抜けの上天気である。何という光り輝く青さだろう、海も空も。澄《す》み透《とお》る明るい空の青が、水平線近くで、茫と煙る金粉の靄《もや》の中に融け去ったかと思うと、その下から、今度は、一目見ただけでたちまち全身が染まってしまいそうな華やかな濃藍の水が、拡がり、膨らみ、盛上って来る。内に光を孕《はら》んだ豊麗極まりない藍紫色の大円盤が、船の白塗の欄干《てすり》の上になり下になりして、とてつもなく大きく高く膨れ上り、さてまたぐうん[#「ぐうん」に傍点]と低く沈んで行く。紺青鬼《こんじょうき》という言葉を私は思出した。それがどんな鬼か知らないが、無数の真蒼な小鬼どもが白金の光耀《こうよう》粲爛《さんらん》たる中で乱舞したら、あるいはこの海と空の華麗さを呈するかも知れないと、そんなとりとめない事を考えていた。
しばらくして、余りの眩《まばゆ》さに海から眼を外らして前を見ると、つい先刻まで私と話していた若い警官は、布製の寝椅子に凭《よ》ったまま、既に快《こころよ》げな寝息を立てていた。
午《ひる》近く、船は珊瑚礁《さんごしょう》の罅隙《かげき》の水道を通って湾に入った。S島だ。黒き小ナポレオンのいるというエルバ島である。
低い・全然丘の無い・小さな珊瑚島だ。緩く半円を描いた渚の砂は――珊瑚の屑は、余りにも真白で眼に痛い。年老いた椰子《ヤシ》樹の列が青い昼の光の中に亭々と聳《そび》え立ち、その下に隠見する土人の小舎がひどく低く小さく見える。二、三十人の土民男女が浜に出て、眼をしかめたり小手を翳《かざ》したりしながら、我々の船の方を見ている。
潮の関係で、突堤には着けられなかった。岸から半丁ほど離れて船が泊ると、迎えの独木舟《カヌー》が三隻水を切って近寄った。見事に赤銅色をした逞《たくま》しい男が、真赤な褌《ふんどし》一つで漕いで来る。近付くと、彼らの耳に黒い耳輪の下っているのが見えた。
「では、行って来ます」と警官はヘルメットを手に取りながら挨拶し、巡警を従えて甲板から降りて行った。
この島には三時間しか泊らないことになっている。私は上陸しないことにした。ひとえに暑さを恐れたためである。
昼食を下で済ませてから、また甲板へ上って来た。外海の濃藍色とは全然違って、堡礁《リーフ》内の水は、乳に溶かした翡翠《ひすい》だ。船の影になった所は、厚い硝子《ガラス》の切断部のような色合に、特に澄み透って見える。エンジェル・フィッシュに似た黒い派手な竪縞《たてじま》のある魚と、さより[#「さより」に傍点]のような飴色《あめいろ》の細い魚とが盛んに泳いでいるのを見下している中に、眠くなって来た。先刻警官の睡った寝椅子に横になると、直ぐに寝てしまった。
タラップを上って来る足音と人声とに目を醒《さ》ますと、もう警官と巡警とが帰って来ていた。傍に、褌一つの島民少年を連れている。
「ああ、これですか。ナポレオンは。」
「ハア」と頷《うなず》くと、警官は少年を、甲板の隅の索具などの積んである辺へ向けて突き飛ばした。「その辺へしゃがんどれ。」
警官の背後《うしろ》から巡警が(二十歳《はたち》になったかならない位の、愚鈍そうな若者だ)何か短く少年に言った。警官の言葉を通訳したのであろう。少年は不貞腐《ふてくさ》れたような一瞥《いちべつ》を我々に投げてから、其処《そこ》にあった木箱に腰を下し、海の方を向いてしまった。
島民としては甚だ眼が小さいが、ナポレオン少年の顔は別に醜いという訳ではない。そうかといって(大抵の邪悪な顔には何処《どこ》か狡《ずる》い賢さがあるものだが)悪賢いという柄でもない。賢さなどというものは全然見られぬ・愚鈍極まる顔でありながら、普通の島民の顔に見られる・あのとぼけた[#「とぼけた」に傍点]おかしさがまるで[#「まるで」に傍点]無い。意味も目的も無い・まじりけの無い悪意だけがハッキリその愚かしい顔に現れている。先ほど警官から聞かされたこの少年のコロールでの残忍な行為も、なるほどこの顔ならやりそうだと思われた。ただ、予期に反したのは、その体躯の小さいことである。島民は概して二十歳前に成長し切ってしまうので、十五、六にもなれば、実に見事な体格をしている者が多い。殊に性的な犯行をするほど早熟な少年ならば、きっと体躯もそれに伴って充分発達しているだろうと思ったのに、これはまた、痩《や》せてひねこびた[#「ひねこびた」に傍点]猿のような少年である。こんな身体の少年が、どうして(いまだに家柄の次には腕力が最ももの[#「もの」に傍点]を言うはずの)島民の間で衆人を懼《おそ》れさせることが出来るか、誠に不可思議に思われた。
「御苦労様でしたな」と私は警官に向って言った。
「イヤ。船が珍しいもんだから、野郎、村の者と一緒に浜へ出とったんで、すぐつかまえましたよ。しかし、あの男が(と巡警を指して)言うにはですな、困ったことに」と警官が言った。「ナポレオンの野郎、今ではパラオ語をすっかり忘れてしまっとるんですと。何をあれに聞かせても通じんのです。しかし、そんな事があるもんでしょうかな。僅か二年の間に自分の生れた土地の言葉をみんな忘れてしまうなんてことが。」
二年間この島でトラック語ばかり使っていたために、ナポレオンはパラオ語を忘れ果てたという。公学校で二年ほど習った日本語を忘れたというのなら、これは解る。しかし、生れた時から使って来たパラオ語まで忘れるとは? 私は首を傾けた。だが、万更《まんざら》、有り得ないことではないかも知れんなと思った。しかし、また一方、警官の訊問を避けるための偽りでないと誰が知ろう。「さあね」と私はもう一度首を傾《かし》げた。
「わし[#「わし」に傍点]もね、奴が嘘をついとるんじゃなかろうかと大分責めて見たんですがな、やっぱり本当に忘れてしまったらしい所もあるし。」と警官はそう言いながら額の汗を拭い、此方に背中を向けているナポレオンの方を忌々《いまいま》しそうに見遣《みや》った。「とにかく、不貞腐れた、生意気な奴ですよ。まだ子供のくせに、こんな強情な野郎は無い。」
午後三時、いよいよ出帆だ。ゴトゴトいうエンジンの音と共に船体が軽く上下に揺れ出した。
私は警官と甲板の椅子に凭って(我々二人だけが一等船客だったのでいつも一緒にいない訳に行かないのである)島の方を見ていた。その時、我々の傍に立っていた例の島民巡警が「アレ!」と頓驚《とんきょう》な声を出して、我々の背後を指さした。すぐその方向に振向いた時、私は、今しも白塗の欄干《てすり》を越えて海の上へと躍った島民少年の後姿を見た。慌てて我々は欄干の所へ駈け寄った。既に脱走者は船から七、八間離れた渦の中を船尾を廻って鮮やかに島の方へと泳いでいた。
「停めろ! 船を停めろ!」と警官が喚《わめ》いた。「ナポレオンが逃げたぞ。」
たちまち船の上はごった返し[#「ごった返し」に傍点]の騒ぎとなった。船尾にいた二人の島民水夫がその場から海に跳び込んで脱走者の後を追うた。二人とも二十歳を越えたばかりと思われる逞しい青年だ。脱走者と追跡者との距離は見る見る縮まって行くように見えた。浜辺で船を見送っていた島の連中もようやく気が付いたらしく、ナポレオンの泳ぎ着こうとする方角に向って、白い砂の上をバラバラと駈けて行く。
思いがけない活劇に、私は欄干に凭ってかたず[#「かたず」に傍点]を呑んだ。これはまた、目も醒めるばかり鮮やかな色彩の世界を背景にした南海の捕りものである。私はよほど嬉しそうな顔をして眺めていたに違いない。「面白いですなあ!」と声を掛けられて気が付くと、いつの間にか隣に船長が(どういう訳か、この船長はいつ見ても多少の酒気を帯びていないことはない)来ていたのである。彼もまたのんびりとパイプの煙をふかしながら、映画でも見るように楽しげに海の活劇を見下していた。巧くナポレオンが浜に泳ぎ着いて、さて島内の森の中へでも逃げおおせてくれればいいと、どうやらそんな事を考えていたらしい自分に気が付いて、私は苦笑した。
だが、結果は案外あっけ[#「あっけ」に傍点]なかった。結局、汀《なぎさ》から二十間ばかりの・丈の立つ所まで来た時、ナポレオンは追い付かれた。並よりも身体の小さい少年一人と、堂々たる体格の青年二人とでは、結果は問うまでもない。少年は二人に両腕を取られて引立てられ、浜に上ったまでは見えたが、島の連中がたちまち取巻いてしまったので、あとは良く見えなくなった。
警官は酷《ひど》く機嫌を悪くしていた。
三十分後、殊勲の二水夫に押えられたナポレオンが再び島のカヌーで船に連れ戻された時、真先に彼は手酷い平手打を三つ四つ続けざまに喰わせられた。さて、それから今度は(先刻は縄をつけなかったのだ)両手両足を船の麻縄で縛り上げられた上、隅っこの・島民船員の食料が詰め込んであるらしい椰子バスケットと飲用の皮剥若椰子との間にころがされた。
「畜生。余計な世話を焼かせやがる!」と警官は、それでもようやく安堵したように、そう言った。
翌日も完全な上天気であった。一日陸を見ずに、船は南へ走った。
ようやく夕方近くなって、無人島H礁の環礁の中に入った。無人島に船を寄せるのは、万一漂流者がありはせぬかを調べるためだろうと私は思った。何処かの命令航路の規約にそんな事が書いてあったのを憶えていたからである。ところが実際は、そんな甘い人道的な考え方からではなかった。此処での高瀬貝採取権を独占している南洋貿易会社からの頼みで、密漁者を取締るのが目的なのだという。
甲板の上から見ると、夥《おびただ》しい海鳥の群がこの低い珊瑚礁島を蔽うている。船員の二、三に誘われ上陸して見て、更に驚いた。岩の陰も木の上も砂の上も、ただ一面の鳥、鳥、鳥、それから鳥の卵と鳥の糞《ふん》とである。そうして、それら無数の鳥どもは我々が近寄っても逃げようとはしない。捕えようとすると、始めて僅かに二、三歩よたよた[#「よたよた」に傍点]と避けるだけである。大きいのは人間の子供位なのから、小さいのは雀位のものに至るまで、白いもの、灰色のもの、薄茶色のもの、淡青のもの、何万とも数え切れぬ数十種の海鳥どもが群れているのだが、残念ながら、私には(同行の船員にも)一つも名前が判らぬ。私はただ無性に嬉しくなり、むやみに走り廻っては彼らを追いかけ廻した。幾らでも、全く可笑しい位幾らでも、捕《つか》まるのだ。嘴《くちばし》の赤くて長い・大きな白い奴を一羽抱きかかえた時はさすがに少し暴れられてつっ突かれ[#「つっ突かれ」に傍点]はしたが、私は子供のように喚声をあげながら何十羽となく捕えては離し、捕えては離しした。同行の船員らは始めてではないので私ほどに喜びはしなかったが、それでも棒切を揮《ふる》っては大分無用の殺生をしていた。彼らは手頃な大きさの奴三羽と、薄黄色い卵を十ばかり、食用にするために船へ持ち帰った。
遠足に行った少年のように満足し切って船に戻ると、下船しなかった警官が私に言った。
「あの野郎(ナポレオンのことだ)昨日から不貞腐れて何も喰わんのですよ。芋と椰子水を出して手の縄を解いてやるんだが、見向きもせんのです。何処まで強情か底が知れん。」
なるほど、少年は昨日と同じ場所に同じ姿勢でころがっていた。(幸い、そこは陽の射さぬ所だったが。)私が側へ寄っても、目はハッキリあい
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