ヤった。疲れているので、午後の水浴をしている娘どもにからかう気も起らない。また、緩やかな石の坂道を下り続ける。
 夾竹桃《きょうちくとう》が紅い花を簇《むらが》らせている家の前まで来た時、私の疲れ(というか、だるさというか)は堪えがたいものになって来た。私はその島民の家に休ませてもらおうと思った。家の前に一尺余りの高さに築いた六畳敷ほどの大石畳がある。それがこの家の先祖代々の墓なのだが、その横を通って、薄暗い家の中を覗《のぞ》き込むと、誰もいない。太い丸竹を並べた床の上に、白い猫が一匹ねそべっているだけである。猫は眼をさまして此方を見たが、ちょっと咎《とが》めるように鼻の上を顰《しか》めたきりで、また目を細くして寝てしまった。島民の家故、別に遠慮することもないので、勝手に上《あが》り端《ばな》に腰掛けて休むことにした。
 煙草に火をつけながら、家の前の大きな平たい墓と、その周囲に立つ六、七本の檳榔《びんろう》の細い高い幹を眺める。パラオ人は――パラオ人ばかりではない。ポナペ人を除いた凡《すべ》てのカロリン群島人は――檳榔の実を石灰に和して常に噛み嗜《たしな》むので、家の前には必ず数本のこの樹を植えることにしている。椰子《ヤシ》よりも遥かに細くすらり[#「すらり」に傍点]とした檳榔の木立が矗《ちく》として立っている姿は仲々に風情がある。檳榔と並んで、ずっと丈の低い夾竹桃が三、四本、一杯に花をつけている。墓の石畳の上にも点々と桃色の花が落ちていた。何処からか強い甘い匂の漂って来るのは、多分この裏にでも印度素馨《インドそけい》が植わっているのだろう。その匂は今日のような日にはかえって頭を痛くさせる位に強烈である。
 風は依然として無い。空気が濃く重くドロリと液体化して、生温い糊《のり》のようにねばねば[#「ねばねば」に傍点]と皮膚にまといつく。生温い糊のようなものは頭にも浸透して来て、そこに灰色の靄《もや》をかける。関節の一つ一つがほごれたようにだるい。
 煙草を一本吸い終って殻を捨てた拍子に、ちょっと後を向いて家の中を見ると、驚いた。人がいる。一人の女が。何処からいつの間に、はいって来たのだろう? 先刻までは誰もいなかったのに。白い猫しかいなかったのに。そういえば今は白猫がいなくなっている。ひょっとすると、先刻の猫がこの女に化けたんじゃないかと(確かに頭がどうかしていた)本当に、ごく一瞬間だが、そんな気がした。
 驚いた私の顔を、女はまじろぎもせずに見ている。それは驚いた目ではない。先刻から私が外を眺めていた間中ずっと此方を見ていたというような感じがした。
 女は上半身すっかり裸体で、鳶足《とんびあし》に坐った膝の上に赤ん坊を抱いている。赤ん坊はひどく小さい。生れて二月にもなるまい。睡りながら乳首をくわえている。吸っている様子は無い。びっくりしたのと、言葉が不自由なのとで、私は、勝手に留守宅に休ませてもらった断りを言いそびれ、黙って女の顔を見ていた。こんなに眼を外らさない女は無い。ほとんど目を据えていると言っても宜《よ》い。熱病めいた異常なものまでが、その眼の光の中に漂っているようである。少々気味が悪くなって来た。
 私が逃出さなかったのは、女の目付の中に異常なものはあっても兇暴なものが見えなかったからである。いや、まだもう一つ、そうやって無言で向い合っている中に次第に微かながらエロティッシュな興味が生じて来たからでもあった。実際、その若い細君は美人といって良かった。パラオ女には珍しく緊《しま》った顔立で、恐らく内地人との混血なのではなかろうか。顔の色も、例の黒光りするやつ[#「やつ」に傍点]ではなくて、艶を消したような浅黒さである。何処にも黥《いれずみ》の見えないのは、その女がまだ若くて、日本の公学校教育を受けて来たためであろう。右の手で膝の児を抑え、左の手は斜め後《うしろ》に竹の床《ゆか》に突いているが、その左手の肱《ひじ》と腕とが(普通の関節の曲り方とは反対に)外側に向ってく[#「く」に傍点]の字に折れている。こういう関節の曲り方はこの地方の女にしか見られないものだ。やや反《そ》り気味なその姿勢で、受け口の唇を半ば開いたまま、睫《まつげ》の長い大きな目で、放心したように此方を見詰めている。私はその目を外らすことをしなかった。
 弁解じみるようだが、一つには確かにその午後の温度と、湿気と、それから、その中に漂う強い印度素馨の匂とが、良くなかったのである。
 私には先ほどからの、女の凝視の意味がようやく判って来た。何故若い島民の女が(それも産後間もないらしい女が)そんな気持になったか、病み上りの私の身体が女のそういう視線に値するかどうか、また、熱帯ではこんな事が普通なのかどうか、そんな事は一切判らないながら、とにかく現在のこの女の凝視の意味だけはこの上なくハッキリ判った。女の浅黒い顔に、ほのかに血の色が上って来たのを私は見た。かなり朦朧《もうろう》とした頭の何処かで、次第に増して来る危険感を意識してはいたのだが、もちろんそれを嗤《わら》う気持の方に自信をもっていたのである。その中に、しかし、私は妙に縛られて行くような自分を感じ始めた。
 全く莫迦莫迦《ばかばか》しい話だが、その時の泥酔したような変な気持を後《あと》で考えて見ると、どうやら私はちょっと熱帯の魔術にかかっていたようである。その危険から救ってくれたものは、病後の身体の衰弱であった。私は縁に足を垂れて腰掛けていたので、女の方を見るためには、身体を捩《ねじ》って斜め後《うしろ》を向かねばならない。この姿勢がひどく私を疲れさせた。しばらくする中に、横腹と頸《くび》の筋がひどく痛くなって来て、思わず、姿勢を元に戻すと、視線を表の景色に向けた。何故か、深い溜息がホーッと腹の底から出た。途端に呪縛《じゅばく》が解けたのである。
 一瞬前の己の状態を考えて、私は覚えず苦笑した。縁から腰を上げて立上ると、その苦笑を浮かべた顔で、家の中の女にサヨナラと日本語で言った。女は何も答えない。酷《ひど》い侮辱を受けでもしたように、明らかに怒った顔付をして、先刻と同じ姿勢のまま私を見据えた。私はそれに背中を向けて、入口の夾竹桃の方へ歩き出した。

 アミアカとマンゴーの巨樹の下を敷石伝いに私はようやく宿に帰って来た。身体も神経もすっかり疲れ果てて。私の宿というのは、この村の村長たる島民の家だ。
 私の食事の世話をしてくれる日本語の巧い島民女マダレイに、先刻の家の女のことを聞いて見た。(もちろん、私の経験をみんな話した訳ではない。)マダレイは、黒い顔に真白な歯を見せて笑いながら、「ああ、あのベッピンサン」と言った。そして、付加えて言うことに、「あの人、男の人、好き。内地の男の人なら誰でも好き。」
 先刻の自分の醜態を思出して、私はまた苦笑した。

 湿った空気のそよ[#「そよ」に傍点]とも動かぬ部屋の中で、板の間の呉蓙《ござ》の上に疲れた身体をぐったりと横たえ、私は昼寝の眠りに入った。
 三十分ほども経《た》ったろうか。突然、冷たい感触が私を目醒《めざ》めさせる。風が出たのか? 起上って窓から外を見ると、近くのパンの木の葉という葉が残らず白い裏を見せて翻っている。有難いなと思って、急に真黒になった空を見上げている中に、猛烈なスコールがやって来た。屋根を叩き、敷石を叩き、椰子の葉を叩き、夾竹桃の花を叩き落して、すさまじい音を立てながら、雨は大地を洗う。人も獣も草木もやっと[#「やっと」に傍点]蘇った。遠くから新しい土の香が匂って来る。太い白い雨脚を見ながら、私は、昔の支那《シナ》人の使った銀竹[#「銀竹」に傍点]という言葉を爽かに思い浮かべていた。

 雨が霽《あが》ってからしばらくして表へ出て見たら、まだ濡れている敷石路を、向うから先刻の夾竹桃の家の女が歩いて来た。家に寝かし付けて来たのか、赤ん坊は抱いていない。私と擦れ違ったが、視線を向けもしなかった。怒っている顔付ではなく、全然私を認めないような、澄ました無表情な顔であった。
[#改ページ]

   ナポレオン


「ナポレオンを召捕りに行くのですよ」と若い警官が私に言った。パラオ南方離島通いの小汽船、国光丸の甲板の上である。
「ナポレオン?」
「ええ、ナポレオンですよ」と若い警察官は私の驚きを期待していたように笑いながら言った。「ナポレオンといっても、島民ですがね。島民の子供の名前です。」
 島民には随分変った名前が色々とある。昔は基督《キリスト》教の宣教師に命名してもらうことが多かったので、マリヤとかフランシスなどというのが多く、また、以前|独逸《ドイツ》領だった関係からビスマルクなどというのも時にあったが、ナポレオンは珍しい。しかし、私の知っている他の島民の名前、シチガツ(七月に生れたのであろう)、ココロ(心?)、ハミガキなどに比べれば、何といっても堂々たる名前には違いない。もっとも、その余り堂々とし過ぎている点が可笑《おか》しいのには違いないが。
 甲板に張られたカンヴァスの日覆の下で、私は色の黒い不良少年、ナポレオンの話を聞いた。
 ナポレオンは二年前までコロールの街にいたのだが、公学校三年生の時、年下の女の児にひどく悪性の嗜虐《しぎゃく》症的な悪戯《いたずら》をして、その児をほとんど死に瀕せしめたという。その他これに類する事件を二つ三つ引起し、更に窃盗なども働いたらしく、一昨年十三歳の時に、未成年者への罰として、コロールから遥か離れた南方のS島へ流されたのである。名目上はパラオ諸島に属しているものの、これら南方離島は地質的にも全然別の島だし、住民もずっと東方の中央カロリン系のものなので、言語習慣もパラオとはまるで[#「まるで」に傍点]変っている。さすがの悪少年ナポレオンも最初は大分閉口したらしいが、環境に適応する(というよりこれを克服する)不思議な才能を備えていると見え、半年も経たぬ間に、S島でももてあます跳梁《ちょうりょう》ぶりを示し始めた。島の少年どもを脅迫したり、娘や人妻に怪しからぬ振舞をして困るからとの陳情が、島の村長から大分前にパラオ支庁の方へ来ているという。そんな悪少年は島の内で制裁すればいいと思われるのに、それがどうして、島の成人《おとな》たちが逆に怯《おび》えている有様なのだそうだ。S島は人口も極めて少く、それも年々減少しつつある、いわば廃島に近い島なのだが、僅か十五、六歳の少年一人を抑えかねるほど、住民らも元気が無いのであろうか。
 私と今話している警察官がナポレオンを召捕りに[#「ナポレオンを召捕りに」に傍点]来たのは、この少年に改悛《かいしゅん》の情無しと見たパラオ支庁の警務課が、彼の流刑の期間を延長し、その上|流竄地《りゅうざんち》をS島よりも更に南方遥か隔たったT島に変更することに決めたためである。警官は、この用件と、もう一つ僻遠《へきえん》諸離島の人頭税取立てとを兼ねて、一人の島民巡警を引連れ、内地人の乗ることなどほとんど無い・そして年に僅か三回位しか通わないこの離島航路の小船に乗ったのであった。
「ナポレオン先生、大人しくこの船に乗せられて、T島に移りますかな?」と私が言うと、「なあに、いくら悪《わる》だといったって、たかが島民の子供じゃないですか。問題じゃない」と警官がむき[#「むき」に傍点]になって答えた。その声に、今までの会話の調子と違って、意外にも若干の憤激の調子が感じられ、ああ、私の今の言葉は島民の前には絶対権威をもつ警官への多少の侮辱に当るのかも知れぬと気が付いた。
 S島がナポレオンの存在に困るからとて、T島にやったのでは、同じような無気力者の寄合に違いないT島でもやはりこの少年に手古摺《てこず》るに違いない。もっと他に何か方法は無いものか。たとえばコロールの街で厳重な監視の下に労役に従わせるとか、そういう風な。それに、一体、この流刑という古風な刑罰を少年に課しているのは、どういう法律なのだろう? 日本人の籍をもたぬ彼ら島民、殊にその未成年者には、どんな法律が設けられてい
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