ノ言った。
「マリヤン! マリヤン!(氏がいやに大きな声を出したのは、家を出る時ちょっと引掛けて来た合成酒のせいに違いない)マリヤンが今度お婿さんを貰うんだったら、内地の人でなきゃ駄目だなあ。え? マリヤン!」
「フン」と厚い唇の端をちょっとゆがめたきり、マリヤンは返辞をしないで、プールの面を眺めていた。月はちょうど中天に近く、従って海は退潮なので、海と通じているこのプールはほとんど底の石が現れそうなほど水がなくなっている。しばらくして、私が先刻のH氏の話のつづきを忘れてしまった頃、マリヤンが口を切った。
「でもねえ、内地の男の人はねえ、やっぱりねえ。」
なんだ。こいつ、やっぱり先刻からずっと、自分の将来の再婚のことを考えていたのかと急に私は可笑しくなって、大きな声で笑い出した。そうして、なおも笑いながら「やっぱり内地の男は、どうなんだい? え?」と聞いた。笑われたのに腹を立てたのか、マリヤンは外《そ》っぽを向いて、何も返辞をしなかった。
この春、偶然にもH氏と私とが揃って一時[#「一時」に傍点]内地へ出掛けることになった時、マリヤンは鶏をつぶして最後のパラオ料理の御馳走をしてくれた。
正月以来絶えて口にしなかった肉の味に舌鼓《したつづみ》を打ちながら、H氏と私とが「いずれまた秋頃までには帰って来るよ」(本当に、二人ともその予定だったのだ)と言うと、マリヤンが笑いながら言うのである。
「おじさん[#「おじさん」に傍点]はそりゃ半分以上島民なんだから、また戻って来るでしょうけれど、トンちゃん(困ったことに彼女は私のことをこう呼ぶのだ。H氏の呼び方を真似たのである。初めは少し腹を立てたが、しまいには閉口して苦笑する外は無かった)はねえ。」
「あてにならないというのかい?」と言えば、「内地の人といくら友達になっても、一ぺん内地へ帰ったら二度と戻って来た人は無いんだものねえ」と珍しくしみじみと言った。
我々が内地へ帰ってから、H氏の所へ二、三回マリヤンから便りがあったそうである。その都度トンちゃんの消息を聞いて来ているという。
私はといえば、実は、横浜へ上陸するや否や、たちまち寒さにやられて風邪をひき、それがこじれて肋膜《ろくまく》になってしまったのである。再び彼の地の役所に戻ることは、到底|覚束無《おぼつかな》い。
H氏も最近偶然結婚(随分晩婚だが)の話がまとまり、東京に落着くこととなった。もちろん、南洋土俗研究に一生を捧げた氏のこと故、いずれはまた向うへも調査には出掛けることがあるだろうが、それにしても、マリヤンの予期していたように彼の地に永住することはなくなった訳だ。
マリヤンが聞いたら何というだろうか?
[#改ページ]
風物抄
※[#ローマ数字1、1−13−21]
[#地から5字上げ]クサイ
朝、目が覚めると、船は停っている様子である。すぐに甲板に上って見る。
船は既に二つの島の間にはいり込んでいた。細かい雨が降っている。今まで見て来た南洋群島の島々とはおよそ変った風景である。少くとも、今甲板から眺めるクサイの島は、どう見ても、ゴーガンの画題ではない。細雨に烟《けむ》る長汀《ちょうてい》や、模糊《もこ》として隠見する翠《みどり》の山々などは、確かに東洋の絵だ。一汀煙雨杏花寒とか、暮雲巻雨山娟娟とか、そんな讃がついていても一向に不自然に思われない・純然たる水墨的な風景である。
食堂で朝食を済ませてから、また甲板へ出て見ると、もう雨は霽《あが》っていたが、まだ、煙のような雲が山々の峡《はざま》を去来している。
八時、ランチでレロ島に上陸、すぐに警部補派出所に行く。この島には支庁が無く、この派出所で一切を扱っているのである。昔見た映画の「罪と罰」の中の刑事のような・顔も身体も共に横幅の広い警部補が一人、三人の島民巡警を使って事務をとっていた。公学校視察のために来たのだと言うと、すぐに巡警を案内につけてくれた。
公学校に着くと、背の低い・小肥《こぶと》りに肥った・眼鏡の奥から商人風の抜目の無さそうな(絶えず相手の表情を観察している)目を光らせた・短い口髭《くちひげ》のある・中年の校長が、何か不埒《ふらち》なものでも見るような態度で、私を迎えた。
教室は一棟三室、その中の一室は職員室にあててある。此処《ここ》は初等課だけだから三年までである。門をはいるや否や、色の浅黒い(といっても、カロリン諸島は東へ行くにつれて色の黒さが薄らいでくるように思われる)子供らが争って前に出て来ては、オハヨウゴザイマスと叮嚀《ていねい》に頭を下げる。
教員は校長に訓導一人と島民の教員補一人。但し、一人の訓導とは女で、しかも校長の奥さんである。
校長は授業を見られたくない様子だ。殊に己が妻の授業を
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