、すっかり[#「すっかり」に傍点]縛《いまし》めを解かれて、心なしか、明るく元気になったらしく見える。隣りに自分より少し小柄の子供を二人連れ、時々話し合っているのは、既に――上陸後三時間にして早くも乾児《こぶん》を作ってしまったのだろうか?
船がいよいよ汽笛を鳴らして船首を外海に向け始めた時、ナポレオンが居並ぶ島民らと共に船に向って手を振ったのを、私は確かに見た。あの強情な不貞腐れた少年が、一体どうしてそんな事をする気になったものか。島に上って腹一杯芋を喰ったら、船中の憤懣《ふんまん》もハンガー・ストライキも凡て忘れてしまって、ただ少年らしく人々の真似をして見たくなったのだろうか。あるいは、其処の言葉は既に忘れてしまっても、やはりパラオが懐しく、そこへ帰る船に向って、つい手を振る気になったのだろうか。どちらとも私には判らない。
国光丸はひたすら北へ向って急ぎ、小ナポレオンのためのセント・ヘレナは、やがて灰色の影となり、煙の如き一線となり、一時間後には遂に完全に、青焔燃ゆる大円盤の彼方に没し去った。
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真昼
目がさめた。ウーンと、睡り足りた後の快い伸びをすると、手足の下、背中の下で、砂が――真白な花|珊瑚《さんご》の屑がサラサラと軽く崩れる。汀《なぎさ》から二間と隔たらない所、大きなタマナ樹の茂みの下、濃い茄子《なす》色の影の中で私は昼寝をしていたのである。頭上の枝葉はぎっしりと密生《こ》んでいて、葉洩日もほとんど落ちて来ない。
起上って沖を見た時、青鯖《さば》色の水を切って走る朱の三角帆の鮮やかさが、私の目をハッキリと醒《さ》めさせた。その帆掛|独木舟《カヌー》は、今ちょうど外海から堡礁《リーフ》の裂目にさしかかったところだった。陽射しの工合から見れば、時刻は午《ひる》を少し廻ったところであろう。
煙草を一服つけ、また、珊瑚屑の上に腰を下す。静かだ。頭上の葉のそよぎと、ピチャリピチャリと舐《な》めるような渚の水音の外は、時たま堡礁の外の濤《なみ》の音が微《かす》かに響くばかり。
期限付の約束に追立てられることもなく、また、季節の継ぎ目というものも無しに、ただ長閑《のどか》にダラダラと時が流れて行くこの島では、浦島太郎は決して単なるお話[#「お話」に傍点]ではない。ただこの昔語《むかしがたり》の主人公がその女主人公に見出した魅力を、我々がこの島の肌黒く逞《たくま》しい少女どもに見出しがたいだけのことだ。一体、時間[#「時間」に傍点]という言葉がこの島の語彙《ごい》の中にあるのだろうか?
一年前、北方の冷たい霧の中で一体自分は何を思い悩んでいたやら、と、ふと私は考えた。何か、それは遠い前の世の出来事ででもあるように思われる。肌に浸みる冬の感覚ももはや生々《なまなま》しく記憶の上に再現することが不可能だ。と同様に、かつて北方で己を責めさいなんだ数々の煩《わずら》いも、単なる事柄の記憶にとどまってしまい、快い忘却の膜の彼方に朧《おぼ》ろな影を残しているに過ぎない。
では、自分が旅立つ前に期待していた南方の至福とは、これなのだろうか? この昼寝の目醒めの快さ、珊瑚屑の上での静かな忘却と無為と休息となのだろうか?
「いや」とハッキリそれを否定するものが私の中にある。「いや、そうではない。お前が南方に期待していたものは、こんな無為と倦怠とではなかったはずだ。それは、新しい未知の環境の中に己《おのれ》を投出して、己の中にあってまだ己の知らないでいる力を存分に試みることだったのではないのか。更にまた、近く来るべき戦争に当然戦場として選ばれるだろうことを予想しての冒険への期待だったのではないか。」
そうだ。たしかに。それだのに、その新しい・きびしいものへの翹望《ぎょうぼう》は、いつか快い海軟風《かいなんぷう》の中へと融け去って、今はただ夢のような安逸と怠惰とだけが、懶《ものう》く怡《たの》しく何の悔も無く、私を取り囲んでいる。
「何の悔も無く? 果して、本当に、そうか?」と、また先刻の私の中の意地の悪い奴が聞く。「怠惰でも無為でも構わない。本当にお前が何の悔も無く[#「何の悔も無く」に傍点]あるならば。人工の・欧羅巴《ヨーロッパ》の・近代の・亡霊から完全に解放されているならばだ。ところが、実際は、何時《いつ》何処《どこ》にいたってお前はお前なのだ。銀杏の葉の散る神宮外苑をうそ[#「うそ」に傍点]寒く歩いていた時も、島民どもと石焼のパンの実《み》にむしゃぶりついている時も、お前はいつもお前だ。少しも変りはせぬ。ただ、陽光と熱風とが一時的な厚い面被《ヴェイル》をちょっとお前の意識の上にかぶせているだけだ。お前は今、輝く海と空とを眺めていると思っている。あるいは島民と同じ目で眺めていると自惚《うぬぼ》れ�
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