ケやがる!」と警官は、それでもようやく安堵したように、そう言った。

 翌日も完全な上天気であった。一日陸を見ずに、船は南へ走った。
 ようやく夕方近くなって、無人島H礁の環礁の中に入った。無人島に船を寄せるのは、万一漂流者がありはせぬかを調べるためだろうと私は思った。何処かの命令航路の規約にそんな事が書いてあったのを憶えていたからである。ところが実際は、そんな甘い人道的な考え方からではなかった。此処での高瀬貝採取権を独占している南洋貿易会社からの頼みで、密漁者を取締るのが目的なのだという。
 甲板の上から見ると、夥《おびただ》しい海鳥の群がこの低い珊瑚礁島を蔽うている。船員の二、三に誘われ上陸して見て、更に驚いた。岩の陰も木の上も砂の上も、ただ一面の鳥、鳥、鳥、それから鳥の卵と鳥の糞《ふん》とである。そうして、それら無数の鳥どもは我々が近寄っても逃げようとはしない。捕えようとすると、始めて僅かに二、三歩よたよた[#「よたよた」に傍点]と避けるだけである。大きいのは人間の子供位なのから、小さいのは雀位のものに至るまで、白いもの、灰色のもの、薄茶色のもの、淡青のもの、何万とも数え切れぬ数十種の海鳥どもが群れているのだが、残念ながら、私には(同行の船員にも)一つも名前が判らぬ。私はただ無性に嬉しくなり、むやみに走り廻っては彼らを追いかけ廻した。幾らでも、全く可笑しい位幾らでも、捕《つか》まるのだ。嘴《くちばし》の赤くて長い・大きな白い奴を一羽抱きかかえた時はさすがに少し暴れられてつっ突かれ[#「つっ突かれ」に傍点]はしたが、私は子供のように喚声をあげながら何十羽となく捕えては離し、捕えては離しした。同行の船員らは始めてではないので私ほどに喜びはしなかったが、それでも棒切を揮《ふる》っては大分無用の殺生をしていた。彼らは手頃な大きさの奴三羽と、薄黄色い卵を十ばかり、食用にするために船へ持ち帰った。
 遠足に行った少年のように満足し切って船に戻ると、下船しなかった警官が私に言った。
「あの野郎(ナポレオンのことだ)昨日から不貞腐れて何も喰わんのですよ。芋と椰子水を出して手の縄を解いてやるんだが、見向きもせんのです。何処まで強情か底が知れん。」
 なるほど、少年は昨日と同じ場所に同じ姿勢でころがっていた。(幸い、そこは陽の射さぬ所だったが。)私が側へ寄っても、目はハッキリあいているくせに、視線を向けようともしないのである。

 次の朝、即ちS島を出てから二日目の朝、船はようやくT島に着いた。この航路の終点でもあり、ナポレオン少年の新しい配流地でもある。堡礁内の浅い緑色の水、真白い砂と丈高い椰子樹の遠望、汽船目懸けて素速く漕寄せて来る数隻のカヌー、そのカヌーから船に上って来ては船員の差出す煙草や鰯《いわし》の缶詰などと自分らの持ち来たった鶏や卵などとを交換しようとする島民ども、さては、浜に立って珍しげに船を眺める島人ら。それらは何処の島も変りはない。
 迎えの独木舟が着いた時、巡警は、まだ同じ姿勢で椰子バスケットの間に寝ころがっているナポレオン(彼はとうとう丸二日間、強情に一口も飲食しなかったのだそうだ)にその旨を告げ、足の縄を解いて引起した。ナポレオンは大人しく立上ったが、巡警がなおもその腕を取って警官の方へ引張ろうとした時、憤然とした面持で、島民巡警を不自由な肱《ひじ》で突き飛ばした。突き飛ばされた巡警の愚鈍そうな顔に、瞬間、驚きと共に一種の怖れの表情が浮かんだのを私は見逃さなかった。ナポレオンは独りで警官の後についてタラップを降りた。カヌーに移り、やがてカヌーから岸に下り立ち、二、三の島の者と共に警官について椰子林の間に消えて行くのを、私は甲板から見送った。
 此処で七、八人の島民船客が椰子バスケットを独木舟に積込んで下りて行ったのと入違いに、ここからパラオへ行こうとする十人余りが同じような椰子バスケットを担いで乗込んで来た。無理に大きく引伸ばした耳朶《みみたぶ》に黒光りのする椰子殻製の輪をぶら下げ、首から肩・胸へかけて波状の黥《いれずみ》をした・純然たるトラック風俗である。
 一時間ほどすると、警官と巡警とが船に戻って来た。ナポレオン配流のことを島民らに言って聞かせ、その身柄を村長に託して来たのである。

 出帆は午後になった。
 例によって浜辺には見送りの島の者がずらりと並んで別《わかれ》を惜しんでいる。(一年に三、四回しか見られない大きな[#「大きな」に傍点]船が発《た》つのだから。)
 陽除《ひよけ》の黒眼鏡を掛けて甲板から浜辺を眺めていた私は、彼らの列の中に、どうもナポレオンらしい男の子を見付けた。オヤと思って隣にいた巡警に確かめて見ると、やはり、ナポレオンに違いないと言う。大分離れているので、表情までは分らないが、今はも
前へ 次へ
全21ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング