トいるのかも知れぬ。とんでもない。お前は実は、海も空も見ておりはせぬのだ。ただ空間の彼方に目を向けながら心の中で Elle est 〔retrouve'e〕! ―― Quoi? ―― L'〔E'ternite'〕. C'est la mer 〔me^le'e〕 au soleil.(見付かったぞ! 何が? 永遠が。陽と溶け合った海原が)と呪文のように繰返しているだけなのだ。お前は島民をも見ておりはせぬ。ゴーガンの複製を見ておるだけだ。ミクロネシアを見ておるのでもない。ロティとメルヴィルの画いたポリネシアの色|褪《あ》せた再現を見ておるに過ぎぬのだ。そんな蒼ざめた殻をくっつけている目で、何が永遠だ。哀れな奴め!」
「いや、気を付けろよ」と、もう一つの別な声がする。「未開は決して健康ではないぞ。怠惰が健康でないように。謬《あやま》った文明逃避ほど危険なものは無い。」
「そうだ」と先刻の声が答える。「確かに、未開は健康ではない。少くとも現代では。しかし、それでも、お前の文明[#「お前の文明」に傍点]よりはまだしも溌剌《はつらつ》としていはしないか。いや、大体、健康不健康は文明未開ということと係わり無きものだ。現実を恐れぬ者は、借り物でない・己の目でハッキリ視る者は、何時どのような環境にいても健康なのだ。ところが、お前の中にいる『古代|支那《シナ》の衣冠を着けたいかさま[#「いかさま」に傍点]君子』や『ヴォルテエル面《づら》をした狡そうな道化』と来たら、どうだ。先生たち、今こそ南洋の暑気に酔っぱらってよろめいているらしいが、醒めている時の惨めさを思えば、まだしも、酔っている時の方が、まし[#「まし」に傍点]のようだな。……」
見慣れぬ殻をかぶったちっぽけ[#「ちっぽけ」に傍点]な宿借《やどかり》が三つ四つ私の足許近くまでやって来たが、人の気配を感じて立止り、ちょっと様子を窺《うかが》ってから、慌ててまた逃げて行った。
村は今昼寝の時刻らしい。誰一人浜を通らぬ。海も――少くとも堡礁の内側の水だけは――トロリと翡翠《ひすい》色にまどろんでいるようだ。時々キラリと眩《まぶ》しく陽を照返すだけで。たまに鯔《ぼら》らしいのが水の上に跳ねるのを見れば、魚類だけは目覚めているらしい。明るい静かな・華やかな海と空だ。今、この海の何処《どこ》かで、半身《はんしん》を生温《なまぬる》い水の上に乗出したトリイトンが嚠喨《りゅうりょう》と貝殻を吹いている。何処か、この晴れ渡った空の下で、薔薇《ばら》色の泡からアフロディテが生れかかっている。何処か紺碧の波の間から、甘美なサイレンの歌が賢いイタカ人《びと》の王を誘惑しようとしている。……いけない! またしても亡霊だ。文学、それも欧羅巴文学とやらいうものの蒼ざめた幽霊だ。
舌打をしながら私は立上る。ほろ苦いものがしばらくの間心の隅に残っている。
湿った渚に踏入ると、無数のやどかり[#「やどかり」に傍点]ども、青と赤の玩具のような小蟹どもが一斉に逃げ出す。五寸ほど芽の出掛かった椰子の実の落ちているのを蹴飛ばすと、水の中にころげ入ってボチャンと音を立てる。
そういえば、昨夜、奇妙なことがあった。島民家屋の丸竹を並べた床《ゆか》の上に、薄いタコ[#「タコ」に傍点]の葉の呉蓙《ござ》を一枚敷いて寝ていた時、私は、突然、何の連絡も無く、東京の歌舞伎座の、(それも舞台ではなく)みやげもの[#「みやげもの」に傍点]屋(あられ[#「あられ」に傍点]や飴《あめ》や似顔絵やブロマイドなどを売る)の明るい華美な店先と、その前を行き交う着飾った人波とを思出したのだ。役者の家の紋を散らした派手な箱や缶や手拭や、俳優の似顔の目の隈取《くまど》りや、それを照らす白い強い電燈の光や、それに見入る娘たちや雛妓《すうぎ》らの様子までもはっきり[#「はっきり」に傍点]、彼女らの髪油の匂までもありあり[#「ありあり」に傍点]と、浮かんで来た。私は、歌舞伎劇そのものも余り好きではない。みやげもの屋などに何の興味も無いはずである。何故、こんな意味も内容も無い東京生活の薄っぺらな一断面が、太平洋の濤に囲まれた小さな島の・椰子の葉で葺《ふ》いた土民小舎の中で、家の周囲《まわり》にズシンと落ちる椰子の実の音を聞いている時に、突然思出されたものか。私には皆目《かいもく》判らぬ。とにかく、私の中には色んな奇妙な奴らがゴチャゴチャと雑居しているらしい。浅間しい、唾棄《だき》すべき奴までが。
海岸のタマナ並木の蔭のはずれまで来た時、向うから陽に灼《や》けた砂の上を素裸の小さい男の子が駈けて来た。私の前まで来ると、立止ってキチンと足を揃え、頭が膝《ひざ》の所まで来るほどの丁寧なお辞儀をしてから、食事の用意が出来たことを告げた。私の泊っている島民の家の児で、今年|
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