空の下で、薔薇色の泡からアフロディテが生れかかつてゐる。何處か紺碧の波の間から、甘美なサイレンの歌が賢いイタカ人《びと》の王を誘惑しようとしてゐる。……いけない! 又しても亡靈だ。文學、それも歐羅巴文學とやらいふものの蒼ざめた幽靈だ。
 舌打をしながら私は立上る。ほろ苦《にが》いものが暫くの間心の隅に殘つてゐる。
 濕つた渚に踏入ると、無數のやどかり[#「やどかり」に傍点]共、青と赤の玩具のやうな小蟹共が一齊に逃げ出す。五寸程芽の出掛かつた椰子の實の落ちてゐるのを蹴飛ばすと、水の中にころげ入つてボチヤンと音を立てる。
 さういへば、昨夜、奇妙なことがあつた。島民家屋の丸竹を竝べた床《ゆか》の上に、薄いタコ[#「タコ」に傍点]の葉の呉蓙を一枚敷いて寢てゐた時、私は、突然、何の連絡も無く、東京の歌舞伎座の、(それも舞臺ではなく)みやげもの[#「みやげもの」に傍点]屋(あられ[#「あられ」に傍点]や飴や似顏繪やブロマイド等を賣る)の明るい華美な店先と、其の前を行き交ふ着飾つた人波とを思出したのだ。役者の家の紋を散らした派手な箱や罐や手拭や、俳優の似顏の目の隈取りや、それを照らす白い強い電燈の
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