」と言へば、「内地の人といくら友達になつても、一ぺん内地へ歸つたら二度と戻つて來た人は無いんだものねえ」と珍しくしみ/″\と言つた。

 我々が内地へ歸つてから、H氏の所へ二三囘マリヤンから便りがあつたさうである。其の都度トンちやんの消息を聞いて來てゐるといふ。
 私はといへば、實は、横濱へ上陸するや否や、忽ち寒さにやられて風邪をひき、それがこじれて肋膜になつて了つたのである。再び彼の地の役所に戻ることは、到底覺束無い。
 H氏も最近偶然結婚(隨分晩婚だが)の話がまとまり、東京に落着くこととなつた。勿論、南洋土俗研究に一生を捧げた氏のこと故、いづれは又向ふへも調査には出掛けることがあるだらうが、それにしても、マリヤンの豫期してゐたやうに彼の地に永住することはなくなつた譯だ。
 マリヤンが聞いたら何といふだらうか?
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  風物抄

          ※[#ローマ数字1、1−13−21]
[#地から5字上げ]クサイ
 朝、目が覺めると、船は停つてゐる樣子である。直ぐに甲板に上つて見る。
 船は既に二つの島の間にはひり込んでゐた。細かい雨が降つてゐる。今迄見て來た南洋群島の島々とは凡そ變つた風景である。少くとも、今甲板から眺めるクサイの島は、どう見ても、ゴーガンの畫題ではない。細雨に烟る長汀や、模糊として隱見する翠の山々などは、確かに東洋の繪だ。一汀煙雨杏花寒とか、暮雲卷雨山娟娟とか、そんな讚がついてゐても一向に不自然に思はれない・純然たる水墨的な風景である。

 食堂で朝食を濟ませてから、又甲板へ出て見ると、もう雨は霽《あが》つてゐたが、まだ、煙のやうな雲が山々の峽を去來してゐる。
 八時、ランチでレロ島に上陸、直ぐに警部補派出所に行く。此の島には支廳が無く、この派出所で一切を扱つてゐるのである。昔見た映畫の「罪と罰」の中の刑事のやうな・顏も身體も共に横幅の廣い警部補が一人、三人の島民巡警を使つて事務をとつてゐた。公學校視察の爲に來たのだと言ふと、直ぐに巡警を案内につけて呉れた。
 公學校に着くと、背の低い・小肥《こぶと》りに肥つた・眼鏡の奧から商人風の拔目の無ささうな(絶えず相手の表情を觀察してゐる)目を光らせた・短い口髭のある・中年の校長が、何か不埒なものでも見るやうな態度で、私を迎へた。
 教室は一棟三室、その中の一室は職員室にあててある。此處は初等課だけだから三年までである。門をはひるや否や、色の淺黒い(といつても、カロリン諸島は東へ行くにつれて色の黒さが薄らいでくるやうに思はれる)子供等が爭つて前に出て來ては、オハヨウゴザイマスと叮嚀に頭を下げる。
 教員は校長に訓導一人と島民の教員補一人。但し、一人の訓導とは女で、しかも校長の奧さんである。
 校長は授業を見られたくない樣子だ。殊に己が妻の授業を。私も亦、それを強要して、心理的な機微を觀察しようとする程、意地が惡くはない。たゞ、校長から、此處の島民兒童の特徴や、永年の公學校教育の經驗談でも聽くにとゞめようと思つた。所が、私は、何を聞かねばならなかつたか? 徹頭徹尾、私が先程會つて來た・あの警部補の惡口ばかりを聞かされたのである。
 此處ばかりには限らない。離島《りたう》で、巡査派出所と公學校と兩方のある島では、必ず兩者の軋轢がある。さういふ島では、巡査と公學校長(校長ばかりで下に訓導のゐない學校が甚だ多いので)と、島中でこの二人だけが日本人であり、且つ官吏であるので、自然勢力爭ひが起るのである。どちらか一方だけだと、小獨裁者の專制になつて却つて結果は良いのだが。
 私は今迄にも何囘となくそれを見ては來たが、ここの校長のやうに初對面の者に向つて、いきなり斯う猛烈にやり出すのは、初めてであつた。何の惡口といふことはない。何から何まで其の警部補のする事はみんな惡いのである。魚釣(此の灣内ではもろ鰺[#「もろ鰺」に傍点]が良く釣れるさうだが)の下手なの迄が讒謗の種子にならうとは、私も考へなかつた。魚釣の話が一番|後《あと》に出たものだから、少し慌てて聞いてゐると、警部補は魚釣が下手故此の島の行政事務を任せては置けないといふ風な論旨に取られかねないのである。聞いてゐる中に、先程は何とも感じなかつた・あの横幅の廣い警部補に何だか好感が持てさうな氣がして來た。

 島を案内しようといふのを斷《ことわ》つて公學校を退却すると、私は獨りで、島民に道を聞きながら、「レロの遺跡」といふ名で知られてゐる古代城郭の址を見に行つた。今迄曇つてゐた空から陽が洩れ始め、島は急に熱帶的な相貌を帶びて來た。
 海岸から折れて一丁も行かない中に、目指す石の壘壁にぶつかる。鬱蒼たる熱帶樹に蔽はれ苔に埋もれてはゐるが、素晴らしく大きな玄武岩の構築物だ。
 入口をはひつてからが仲々廣い。苔で滑り
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