る。その都度、私がお相伴に預かるのである。ビンルンムと稱するタピオカ芋のちまき[#「ちまき」に傍点]や、ティティンムルといふ甘い菓子などを始めて覺えたのも、マリヤンのお蔭であつた。

 或る時H氏と二人で道を通り掛かりに一寸マリヤンの家に寄つたことがある。うち[#「うち」に傍点]は他の凡ての島民の家と同じく、丸竹を竝べた床《ゆか》が大部分で、一部だけ板の間になつてゐる。遠慮無しに上つて行くと、其の板の間に小さなテーブルがあつて、本が載つてゐた。取上げて見ると、一册は厨川白村の「英詩選釋」で、もう一つは岩波文庫の「ロティの結婚」であつた。天井に吊るされた棚には椰子バスケットが澤山竝び、室内に張られた紐には簡單着の類が亂雜に掛けられ(島民は衣類をしまはないで、ありつたけだらしなく[#「だらしなく」に傍点]干物《ほしもの》のやうに引掛けておく)竹の床の下に※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]共の鳴聲が聞える。室の隅には、マリヤンの親類でもあらう、一人の女がしどけなく寢ころんでゐて、私共がはひつて行くと、うさん臭さうな[#「うさん臭さうな」に傍点]目を此方に向けたが、又其の儘向ふへ寢返りを打つて了つた。さういふ雰圍氣の中で、厨川白村やピエル・ロティを見付けた時は、實際、何だかへんな氣がした。少々いたましい氣がしたといつてもいい位である。尤も、それは、其の書物に對して、いたましく感じたのか、それともマリヤンに對していた/\しく感じたのか、其處迄はハツキリ判らないのだが。
 其の「ロティの結婚」に就いては、マリヤンは不滿の意を洩らしてゐた。現實の南洋は決してこんなものではないといふ不滿である。「昔の、それもポリネシヤのことだから、よく分らないけれども、それでも、まさか、こんなことは無いでせう」といふ。
 部屋の隅を見ると、蜜柑箱の樣なものの中に、まだ色々な書物や雜誌の類が詰め込んであるやうだつた。その一番上に載つてゐた一册は、たしか(彼女が曾て學んだ東京の)女學校の古い校友會雜誌らしく思はれた。
 コロールの街には岩波文庫を扱つてゐる店が一軒も無い。或る時、内地人の集まりの場所で、偶※[#二の字点、1−2−22]私が山本有三氏の名を口にしたところ、それはどういふ人ですと一齊に尋ねられた。私は別に萬人が文學書を讀まねばならぬと思つてゐる次第ではないが、とにかく、此の町は之程に書物とは縁の遠い所である。恐らく、マリヤンは、内地人をも含めてコロール第一の讀書家かも知れない。

 マリヤンには五歳《いつつ》になる女の兒がある。夫は、今は無い。H氏の話によると、マリヤンが追出したのださうである。それも、彼が度外《どはづ》れた嫉妬家《やきもちや》であるとの理由で。斯ういふとマリヤンが如何にも氣の荒い女のやうだが、――事實また、どう考へても氣の弱い方ではないが――之には、彼女の家柄から來る・島民としての地位の高さも、考へねばならぬのだ。彼女の養父たる混血兒のことは前に一寸述べたが、パラオは母系制だから、之はマリヤンの家格に何の關係も無い。だが、マリヤンの實母といふのが、コロールの第一長老家イデイヅ家の出なのだ。つまり、マリヤンはコロール島第一の名家に屬するのである。彼女が今でもコロール島民女子青年團長をしてゐるのは、彼女の才氣の外に、此の家柄にも依るのだ。マリヤンの夫だつた男は、パラオ本島オギワル村の者だが、(パラオでは女系制度ではあるが、結婚してゐる間は、矢張、妻が夫の家に赴いて住む。夫が死ねば子供等をみんな引連れて實家に歸つて了ふけれども)斯うした家格の關係もあり、又、マリヤンが田舍住ひを厭ふので、稍※[#二の字点、1−2−22]變則的ではあるが、夫の方がマリヤンの家に來て住んでゐた。それをマリヤンが追出したのである。體格から云つても男の方が敵はなかつたのかも知れぬ。しかし、其の後、追出された男が屡※[#二の字点、1−2−22]マリヤンの家に來て、慰藉料《ツガキーレン》などを持出しては復縁を嘆願するので、一度だけ其の願を容れて、又同棲したのださうだが、嫉妬男《やきもちをとこ》の本性は依然直らず(といふよりも、實際は、マリヤンと男との頭腦の程度の相違が何よりの原因らしく)再び別れたのだといふ。さうして、それ以來、獨りでゐる譯である。家柄の關係で、(パラオでは特に之がやかましい)滅多な者を迎へることも出來ず、又、マリヤンが開化し過ぎてゐる爲に大抵の島民の男では相手にならず、結局、もうマリヤンは結婚できないのぢやないかな、と、H氏は言つてゐた。さういへば、マリヤンの友達は、どうも日本人ばかりのやうだ。夕方など、何時も内地人の商人の細君連の縁臺などに割込んで話してゐる。それも、どうやら、大抵の場合マリヤンが其の雜談の牛耳を執つてゐるらしいのである。

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