と屈託の無い豐かな顏だと思ふ。しかし、マリヤン自身は、自分のカナカ的な容貌を多少恥づかしいと考へてゐるやうである。といふのは、後に述べるやうに、彼女は極めてインテリであつて、頭腦の内容は殆どカナカではなくなつてゐるからだ。それにもう一つ、マリヤンの住んでゐるコロール(南洋群島の文化の中心地だ)の町では、島民等の間にあつても、文明的な美の標準が巾をきかせてゐるからである。實際、此のコロールといふ街――其處に私は一番永く滯在してゐた譯だが――には、熱帶でありながら温帶の價値標準が巾をきかせてゐる所から生ずる一種の混亂があるやうに思はれた。最初此の町に來た時はそれ程に感じなかつたのだが、其の後一旦此處を去つて、日本人が一人も住まない島々を經巡つて來たあとで再び訪れた時に、此の事が極めてハツキリと感じられたのである。此處では、熱帶的のものも温帶的のものも共に美しく見えない。といふより、全然、美といふものが――熱帶美も温帶美も共に――存在しないのだ。熱帶的な美を有つ筈のものも此處では温帶文明的な去勢を受けて萎びてゐるし、温帶的な美を有つべき筈のものも熱帶的風土自然(殊に其の陽光の強さ)の下に、不均合な弱々しさを呈するに過ぎない。此の街にあるものは、唯、如何にも植民地の場末と云つた感じの・頽廢した・それでゐて、妙に虚勢を張つた所の目立つ・貧しさばかりである。とにかく、マリヤンは斯うした環境にゐるために、自分の顏のカナカ的な豐かさを餘り欣んでゐないやうに見えた。豐かといへば、しかし、容貌よりも寧ろ、彼女の體格の方が一層豐かに違ひない。身長は五尺四寸を下るまいし、體重は少し痩せた時に二十貫といつてゐた位である。全く、羨ましい位見事な身體であつた。
私が初めてマリヤンを見たのは、土俗學者H氏の部屋に於てであつた。夜、狹い獨身官舍の一室で、疊の代りにうすべり[#「うすべり」に傍点]を敷いた上に坐つてH氏と話をしてゐると、窓の外で急にピピーと口笛の音が聞え、窓を細目にあけた隙間から(H氏は南洋に十餘年住んでゐる中に、すつかり暑さを感じなくなつて了ひ、朝晩は寒くて窓をしめずにはゐられないのである。)若い女の聲が「はひつてもいい?」と聞いた。オヤ、この土俗學者先生、中々油斷がならないな、と驚いてゐる中に、扉をあけてはひつて來たのが、内地人ではなく、堂々たる體躯の島民女だつたので、もう一度私は驚いた。「僕のパラオ語の先生」とH氏は私に紹介した。H氏は今パラオ地方の古譚詩の類を集めて、それを邦譯してゐるのだが、其の女は――マリヤンは、日を決めて一週に三日だけ其の手傳ひをしに來るのだといふ。其の晩も、私を側に置いて二人は直ぐに勉強を始めた。
パラオには文字といふものが無い。古譚詩は凡てH氏が島々の故老に尋ねて歩いて、アルファベットを用ひて筆記するのである。マリヤンは先づ筆記されたパラオ古譚詩のノートを見て、其處に書かれたパラオ語の間違を直す。それから、譯しつつあるH氏の側にゐて、H氏の時々の質問に答へるのである。
「ほう、英語が出來るのか」と私が感心すると、「そりや、得意なもんだよ。内地の女學校にゐたんだものねえ」とH氏がマリヤンの方を見て笑ひながら言つた。マリヤンは一寸てれた[#「てれた」に傍点]やうに厚い脣を綻ばせたが、別にH氏の言葉を打消しもしない。
あとでH氏に聞くと、東京の何處とかの女學校に二三年(卒業はしなかつたらしいが)ゐたことがあるのださうだ。「さうでなくても、英語だけはおやぢ[#「おやぢ」に傍点]に教はつてゐたから、出來るんですよ」とH氏は附加へた。「おやぢ[#「おやぢ」に傍点]と云つても、養父ですがね。そら、あの、ウ※[#小書き片仮名ヰ、404−12]リアム・ギボンがあれの養父になつてゐるのですよ。」ギボンと云はれても、私にはあの浩瀚なローマ衰亡史の著者しか思ひ當らないのだが、よく聞くと、パラオでは相當に名の聞えたインテリ混血兒(英人と土民との)で、獨領時代に民俗學者クレエマア教授が調査に來てゐた間も、ずつと通譯として使はれてゐた男だといふ。尤も、獨逸語ができた譯ではなく、クレエマア氏との間も英語で用を足してゐたのださうだが、さういふ男の養女であつて見れば、英語が出來るのも當然である。
私の變屈な性質のせゐ[#「せゐ」に傍点]か、パラオの役所の同僚とはまるで打解けた交際が出來ず、私の友人といつていいのはH氏の外に一人もゐなかつた。H氏の部屋に頻繁に出入するにつれ、自然、私はマリヤンとも親しくならざるを得ない。
マリヤンはH氏のことををぢさん[#「をぢさん」に傍点]と呼ぶ。彼女がまだほんの小さい時から知つてゐるからだ。マリヤンは時々をぢさん[#「をぢさん」に傍点]の所へうち[#「うち」に傍点]からパラオ料理を作つて來ては御馳走す
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