はない)南子《なんし》は宋の國から來てゐる。容色よりも寧ろ其の才氣で以てすつかり靈公をまるめ込んでゐるのだが、此の夫人が最近靈公に勸め、宋から公子朝といふ者を呼んで衞の大夫に任じさせた。宋朝は有名な美男である。衞に嫁ぐ以前の南子と醜關係があつたことは、靈公以外の誰一人として知らぬ者は無い。二人の關係は今衞の公宮で再び殆どおほつぴら[#「おほつぴら」に傍点]に續けられてゐる。宋の野人の歌うた牝豚牡豚とは、疑ひもなく、南子と宋朝とを指してゐるのである。
 太子は齊から歸ると、側臣の戲陽速《ぎやうそく》を呼んで事を謀つた。翌日、太子が南子夫人に挨拶に出た時、戲陽速は既に匕首を呑んで室の一隅の幕の陰に隱れてゐた。さりげなく話をしながら太子は幕の陰に目くばせをする。急に臆したものか、刺客は出て來ない。三度合圖をしても、たゞ黒い幕がごそ/\搖れるばかりである。太子の妙なそぶり[#「そぶり」に傍点]に夫人は氣が付いた。太子の視線を辿り、室の一隅に怪しい者の潛んでゐるのを知ると、夫人は悲鳴を擧げて奧へ跳び込んだ。其の聲に驚いて靈公が出て來る。夫人の手を執つて落着けようとするが、夫人は唯狂氣のやうに「太
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