余は久しく流離の苦を嘗め来たった。どうだ。諸子にもたまには[#「たまには」に傍点]そういう経験が薬《くすり》だろうと。此の一言で直ちに国外に奔った大夫も二三に止まらない。姉の伯姫と甥の孔※[#「りっしんべん+里」、第3水準1−84−49]《こうかい》とには、固《もと》より大いに酬いる所があったが、一夜宴に招いて大いに酔わしめた後、二人を馬車に乗せ、御者に命じて其の儘国外に駆り去らしめた。衛侯となってからの最初の一年は、誠に憑《つ》かれた様な復讐の月日であった。空しく流離の中に失われた青春の埋合せの為に、都下の美女を漁っては後宮に納れたことは附加えるまでもない。
前から考えていた通り、己《おのれ》と亡命の苦を共にした公子疾を彼は直ちに太子と立てた。まだほんの[#「ほんの」に傍点]少年と思っていたのが、何時しか堂々たる青年の風を備え、それに、幼時から不遇の地位にあって人の心の裏ばかりを覗いて来たせいか、年に似合わぬ無気味な刻薄さをチラリと見せることがある。幼時の溺愛の結果が、子の不遜と父の譲歩という形で、今に到る迄残り、はたの者には到底不可解な気の弱さ[#「気の弱さ」に傍点]を、父は此の子の前にだけ示すのである。此の太子疾と、大夫に昇った渾良夫《こんりょうふ》とだけが、荘公にとっての腹心といってよかった。
或夜、荘公は渾良夫に向って、先《さき》の衛侯|輒《ちょう》が出奔に際し累代の国の宝器をすっかり持去ったことを語り、如何《いか》にして取戻すべきかを計った。良夫は燭を執る侍者を退席させ、自ら燭を持って公に近付き、低声に言った。亡命された前衛侯も現太子も同じく君の子であり、父たる君に先立って位に在られたのも皆自分の本心から出たことではない。いっそ此の際前衛侯を呼戻し、現太子と其の才を比べて見て優れた方を改めて太子に定められては如何。若し不才だったなら、其の時は宝器だけを取上げられれば宜《よ》い訳だ。……
其の部屋の何処かに密偵が潜んでいたものらしい。慎重に人払いをした上での此の密談が其の儘太子の耳に入った。
次の朝、色を作《な》した太子疾が白刃を提げた五人の壮士を従えて父の居間へ闖入《ちんにゅう》する。太子の無礼を叱咤《しった》するどころではなく、荘公は唯色蒼ざめて戦《おのの》くばかりである。太子は従者に運ばせた牡豚を殺して父に盟《ちか》わしめ、太子としての己の位置を保証させ、さて渾良夫の如き奸臣はたちどころに誅《ちゅう》すべしと迫る。あの男には三度迄死罪を免ずる約束がしてあるのだと公が言う。それでは、と太子は父を威すように念を押す。四度目の罪がある場合には間違いなく誅戮《ちゅうりく》なさるでしょうな。すっかり気を呑まれた荘公は唯々《いい》として「諾」と答えるほかは無い。
翌年の春、荘公は郊外の遊覧地|籍圃《せきほ》に一亭を設け、墻塀《しょうへい》、器具、緞帳《どんちょう》の類を凡《すべ》て虎の模様一式で飾った。落成式の当日、公は華やかな宴を開き、衛国の名流は綺羅《きら》を飾って悉《ことごと》く此の地に会した。渾良夫《こんりょうふ》はもともと小姓上りとて派手好みの伊達男である。此の日彼は紫衣に狐裘《こきゅう》を重ね、牡馬二頭立の豪奢な車を駆って宴に赴いた。自由な無礼講のこととて、別に剣を外《はず》しもせずに食卓に就き、食事半ばにして暑くなったので、裘を脱いだ。此の態を見た太子は、いきなり良夫に躍りかかり、胸倉を掴んで引摺り出すと、白刃を其の鼻先に突きつけて詰《なじ》った。君寵を恃《たの》んで無礼を働くにも程があるぞ。君に代って此の場で汝を誅するのだ。
腕力に自信の無い良夫は強いて抵抗もせず、荘公に向って哀願の視線を送りながら、叫ぶ。嘗て御主君は死罪三件まで之を免ぜんと我に約し給うた。されば、仮令《たとい》今我に罪ありとするも、太子は刃《やいば》を加えることが出来ぬ筈だ。
三件とや? 然らば汝の罪を数えよう。汝今日、国君の服たる紫衣をまとう。罪一つ。天子|直参《じきさん》の上卿用たる衷甸両牡《ちゅうじょうりょうぼ》の車に乗る。罪二つ。君の前にして裘を脱ぎ、剣を釈《と》かずして食う。罪三つ。
それだけで丁度三件。太子は未だ我を殺すことは出来ぬ、と、必死にもがきながら良夫が叫ぶ。
いや、まだある。忘れるなよ。先夜、汝は主君に何を言上したか? 君侯父子を離間しようとする佞臣奴《ねいしんめ》!
良夫の顔色がさっ[#「さっ」に傍点]と紙の様に白くなる。
之で汝の罪は四つだ。という言葉も終らぬ中に、良夫の頸はがっくり[#「がっくり」に傍点]前に落ち、黒地に金で猛虎を刺繍した大緞帳に鮮血がさっと迸《ほとばし》る。
荘公は真蒼な顔をした儘、黙って息子のすることを見ていた。
晋の趙簡子《ちょうかんし》の所から荘公に使が来
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