盈虚
中島敦

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)衛《えい》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)当時|范《はん》氏

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「萠+りっとう」、第3水準1−91−14]※[#「耳+貴」、第4水準2−85−14]《かいがい》
−−

 衛《えい》の霊公の三十九年と云う年の秋に、太子|※[#「萠+りっとう」、第3水準1−91−14]※[#「耳+貴」、第4水準2−85−14]《かいがい》が父の命を受けて斉《せい》に使したことがある。途《みち》に宋の国を過ぎた時、畑に耕す農夫共が妙な唄を歌うのを聞いた。
[#ここから3字下げ]
既定爾婁豬
盍帰吾艾※[#「豕+暇のつくり」、第4水準2−89−3]
[#ここから11字下げ]
牝豚はたしかに遣った故
早く牡豚を返すべし
[#ここで字下げ終わり]
 衛の太子は之《これ》を聞くと顔色を変えた。思い当ることがあったのである。
 父・霊公の夫人(といっても太子の母ではない)南子《なんし》は宋の国から来ている。容色よりも寧《むし》ろ其《そ》の才気で以てすっかり霊公をまるめ込んでいるのだが、此の夫人が最近霊公に勧め、宋から公子朝という者を呼んで衛の大夫に任じさせた。宋朝は有名な美男である。衛に嫁ぐ以前の南子と醜関係があったことは、霊公以外の誰一人として知らぬ者は無い。二人の関係は今衛の公宮で再び殆どおおっぴら[#「おおっぴら」に傍点]に続けられている。宋の野人の歌うた牝豚牡豚とは、疑いもなく、南子と宋朝とを指しているのである。
 太子は斉から帰ると、側臣の戯陽速《ぎようそく》を呼んで事を謀《はか》った。翌日、太子が南子夫人に挨拶に出た時、戯陽速は既に匕首《あいくち》を呑んで室の一隅の幕の陰に隠れていた。さりげなく話をしながら太子は幕の陰に目くばせをする。急に臆したものか、刺客は出て来ない。三度合図をしても、ただ黒い幕がごそごそ揺れるばかりである。太子の妙なそぶり[#「そぶり」に傍点]に夫人は気が付いた。太子の視線を辿り、室の一隅に怪しい者の潜んでいるを知ると、夫人は悲鳴を挙げて奥へ跳び込んだ。其の声に驚いて霊公が出て来る。夫人の手を執って落着けようとするが、夫人は唯狂気のように「太子が妾《わたし》を殺します。太子が妾を殺します」と繰返すばかりである。霊公は兵を召して太子を討たせようとする。其の時分には太子も刺客も疾《と》うに都を遠く逃げ出していた。
 宋に奔《はし》り、続いて晋《しん》に逃れた太子|※[#「萠+りっとう」、第3水準1−91−14]※[#「耳+貴」、第4水準2−85−14]《かいがい》は、人毎に語って言った。淫婦刺殺という折角《せっかく》の義挙も臆病な莫迦《ばか》者の裏切によって失敗したと。之《これ》も矢張衛から出奔した戯陽速が此の言葉を伝え聞いて、斯《こ》う酬いた。とんでもない。こちらの方こそ、すんでの事に太子に裏切られる所だったのだ。太子は私を脅して、自分の義母を殺させようとした。承知しなければ屹度《きっと》私が殺されたに違いないし、もし夫人を巧く殺せたら、今度は必ず其の罪をなすりつけられるに決っている。私が太子の言を承諾して、しかも実行しなかったのは、深謀遠慮の結果なのだと。

 晋では当時|范《はん》氏|中行《ちゅうこう》氏の乱で手を焼いていた。斉・衛の諸国が叛乱者の尻押をするので、容易に埒《らち》があかないのである。
 晋に入った衛の太子は、此の国の大黒柱たる趙簡子《ちょうかんし》の許に身を寄せた。趙氏が頗《すこぶ》る厚遇したのは、此の太子を擁立することによって、反晋派たる現在の衛侯に楯突《たてつ》こうとしたに外ならぬ。
 厚遇とはいっても、故国にいた頃の身分とは違う。平野の打続く衛の風景とは凡《およ》そ事《こと》変《かわ》った・山勝ちの絳《こう》の都に、侘しい三年の月日を送った後、太子は遥かに父衛侯の訃《ふ》を聞いた。噂によれば、太子のいない衛国では、已《や》むを得ず※[#「萠+りっとう」、第3水準1−91−14]※[#「耳+貴」、第4水準2−85−14]《かいがい》の子・輒《ちょう》を立てて、位に即かせたという。国を出奔する時後に残して来た男の児である。当然自分の異母弟の一人が選ばれるものと考えていた※[#「萠+りっとう」、第3水準1−91−14]※[#「耳+貴」、第4水準2−85−14]《かいがい》は、一寸《ちょっと》妙な気がした。あの子供が衛侯だと? 三年前のあどけなさ[#「あどけなさ」に傍点]を考えると、急に可笑《おか》しくなって来た。直ぐにも故国に帰って自分が衛侯となるのに、何の造作も
次へ
全5ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング