上に立っている衛侯の姿を睨んだ。役人に笞《むち》打たれても、容易に其の場を立去ろうとしないのである。
冬、西方からの晋軍の侵入と呼応して、大夫・石圃《せきほ》なる者が兵を挙げ、衛の公宮を襲うた。衛侯の己を除こうとしているのを知り先手を打ったのである。一説には又、太子疾との共謀によるのだともいう。
荘公は城門を悉く閉じ、自ら城楼に登って叛軍に呼び掛け、和議の条件を種々提示したが石圃は頑として応じない。やむなく寡《すくな》い手兵を以て禦がせている中に夜に入った。
月の出ぬ間の暗さに乗じて逃れねばならぬ。諸公子・侍臣等の少数を従え、例の高冠昂尾の愛※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]を自ら抱いて公は後門を踰《こ》える。慣れぬこととて足を踏み外して墜ち、したたか股を打ち脚を挫いた。手当をしている暇は無い。侍臣に扶《たす》けられつつ、真暗な曠野を急ぐ。兎にも角にも夜明迄に国境を越えて宋の地に入ろうとしたのである。大分歩いた頃、突然空がぼうっ[#「ぼうっ」に傍点]と仄《ほの》黄色く野の黒さから離れて浮上ったような感じがした。月が出たのである。何時かの夜夢に起されて公宮の露台から見たのとまるでそっくり[#「そっくり」に傍点]の赤銅色に濁った月である。いや[#「いや」に傍点]だなと荘公が思った途端、左右の叢《くさむら》から黒い人影がばらばらと立現れて、打って掛った。剽盗《ひょうとう》か、それとも追手か。考える暇もなく激しく闘わねばならなかった。諸公子も侍臣等も大方は討たれ、それでも公は唯独り草に匍《は》いつつ逃れた。立てなかったために却って見逃されたのでもあろう。
気が付いて見ると、公はまだ※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]をしっかり抱いている。先程から鳴声一つ立てないのは、疾《と》うに死んで了っていたからである。それでも捨て去る気になれず、死んだ※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]を片手に、匍って行く。
原の一隅に、不思議と、人家らしいもののかたまった一郭が見えた。公は漸く其処迄辿り着き、気息|奄々《えんえん》たる様《さま》でとっつき[#「とっつき」に傍点]の一軒に匍い込む。扶け入れられ、差出された水を一杯飲み終った時、到頭来たな! という太い声がした。驚いて眼を上げると、此の家の主人らしい・赭《あか》ら顔の・前歯の大きく飛出た男がじっ[#「じっ」に傍点]と此方を見詰めている。一向に見憶えが無い。
「見憶えが無い? そうだろう。だが、此奴なら憶えているだろうな。」
男は、部屋の隅に蹲《うずく》まっていた一人の女を招いた。其の女の顔を薄暗い灯の下で見た時、公は思わず※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]の死骸を取り落し、殆ど倒れようとした。被衣を以て頭を隠した其の女こそは、紛れもなく、公の寵姫の髢《かもじ》のために髪を奪われた己氏《きし》の妻であった。
「許せ」と嗄れた声で公は言った。「許せ。」
公は顫える手で身に佩《お》びた美玉をとり外して、己氏の前に差出した。
「これをやるから、どうか、見逃して呉れ。」
己氏は蕃刀の鞘《さや》を払って近附きながら、ニヤリと笑った。
「お前を殺せば、璧《たま》が何処かへ消えるとでもいうのかね?」
これが衛侯|※[#「萠+りっとう」、第3水準1−91−14]※[#「耳+貴」、第4水準2−85−14]《かいがい》の最期であった。
底本:「中島敦全集 2」ちくま文庫、筑摩書房
1993(平成5)年3月24日初版発行
1999(平成11)年10月15日第5刷発行
初出:「政界往来」
1942(昭和17)年7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:小林繁雄
校正:多羅尾伴内
2003年7月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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