への美的な耽溺でもある。余り裕《ゆた》かでない生活《くらし》の中から莫大な費用を割いて、堂々たる※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]舎を連ね、美しく強い※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]共を養っていた。
孔叔圉《こうしゅくぎょ》が死に、其の未亡人で※[#「萠+りっとう」、第3水準1−91−14]※[#「耳+貴」、第4水準2−85−14]の姉に当る伯姫《はくき》が、息子の※[#「りっしんべん+里」、第3水準1−84−49]《かい》を虚器《きょき》に擁して権勢を揮い始めてから、漸く衛の都の空気は亡命太子にとって好転して来た。伯姫の情夫・渾良夫《こんりょうふ》という者が使となって屡々《しばしば》都と戚との間を往復した。太子は、志を得た暁には汝を大夫に取立て死罪に抵《あた》る咎あるも三度迄は許そうと良夫に約束し、之を手先としてぬかり無く策謀を運《めぐ》らす。
周の敬王の四十年、閏《うるう》十二月某日※[#「萠+りっとう」、第3水準1−91−14]※[#「耳+貴」、第4水準2−85−14]は良夫に迎えられて長駆都に入った。薄暮女装して孔氏の邸に潜入、姉の伯姫や渾良夫と共に、孔家の当主衛の上卿たる・甥の孔※[#「りっしんべん+里」、第3水準1−84−49]《こうかい》(伯姫からいえば息子)を脅し、之を一味に入れてクウ・デ・タアを断行した。子・衛侯は即刻出奔、父・太子が代って立つ。即ち衛の荘公である。南子に逐われて国を出てから実に十七年目であった。
荘公が位に立って先ず行おうとしたのは、外交の調整でも内治の振興でもない。それは実に、空費された己の過去に対する補償であった。或いは過去への復讐であった。不遇時代に得られなかった快楽は、今や性急に且つ十二分に充たされねばならぬ。不遇時代に惨《みじ》めに屈していた自尊心は、今や俄《にわ》かに傲然と膨れ返らねばならぬ。不遇時代に己を虐げた者には極刑を、己を蔑《さげす》んだ者には相当な懲しめを、己に同情を示さなかった者には冷遇を与えねばならぬ。己の亡命の因であった先君の夫人南子が前年亡くなっていたことは、彼にとって最大の痛恨事であった。あの姦婦を捕えてあらゆる辱しめを加え其の揚句《あげく》極刑に処してやろうというのが、亡命時代の最も愉《たの》しい夢だったからである。過去の己に対して無関心だった諸重臣に向って彼は言った。
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