かめれおん日記
中島敦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)背後《うしろ》から
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)菓子箱|樣《やう》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「虫+尤」、第3水準1−91−52]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ぐる/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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[#地から5字上げ]蟲有※[#「虫+尤」、第3水準1−91−52]者。一身兩口、爭相※[#「齒+乞」、第4水準2−94−76]也。遂相食、因自殺。
[#地から5字上げ]――韓非子――
[#改ページ]
一
博物教室から職員室へ引揚げて來る時、途中の廊下で背後《うしろ》から「先生」と呼びとめられた。
振返ると、生徒の一人――顏は確かに知つてゐるが、名前が咄嗟には浮かんで來ない――が私の前に來て、何かよく聞きとれないことを言ひながら、五寸角位の・蓋の無い・菓子箱|樣《やう》のものを差出した。箱の中には綿が敷かれ、其の上に青黒い蜥蜴のやうな妙な形のものが載《の》つてゐる。
「何? え? カメレオン? え? カメレオンぢやないか。生きてるの?」
思ひ掛けないものの出現に面喰つて、私が矢繼早やに聞くと、生徒は「ええ」と頷いて、顏を赭らめながら説明した。親戚の船員のものがカイロか何處かで貰つて來たのだが、珍しいものだから學校へ持つて行つてはと云ふので、博物の教師である私の所へ持つて來たのだといふ。
「ほう、そりや、どうも」有難うとも言はないで、私は其の箱を受取り、龍に似た小さな怪物を眺めた。蜥蜴よりもずつと立體的な感じで、頭が大きく、尾が長く捲き、寒さで元氣が無いらしいが、それでも、眞蒼な前肢で、しかつめらしく綿を踏《ふん》まへてゐる。
生徒は私にカメレオンを渡して了ふと、それ以上私の前に立つてゐるのを羞しがるやうに、ぴよこんと頭を下げてから行つて了つた。
職員室へ持つて行つてから、始めて、飼育の困難に氣がついた。學校には温室がない。取敢へず火鉢の側の鉢植の朴の木の枝にとまらせた。はじめはジツと動かなかつたが、その中《うち》に、傍の火の温かみで元氣が出たと見え、少しづつ動き出した。眼窩はかなり大きいのだが、眼玉が外を覗く孔《あな》は極めて小さく、その小さな孔をぐる/\方々に向けて※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しながら、その奧から見慣れぬ風景を探つてゐるらしい。朴の枝から葉の方へと匍ひ出しては身體の重みで滑りさうになり、葉の縁を趾指《あしゆび》で掴んで支へようとするが、到頭落ちてしまふ。何度も鉢の土だの床だのの上に落ちた。落ちる度に、自分の失策を嘲笑《わら》はれて腹を立てた子供のやうに眞劍な顏付で起上つて、(背中に立つてゐる裝飾風なギザ/\が、もの/\しい眞面目な外觀を與へてゐる)めくらめつぽふ[#「めくらめつぽふ」に傍点]に歩き出す。
職員達はみんな珍しがつて見にやつて來た。大抵は、何ですかと不思議さうに訊ねる。國漢の老教師は、どう勘違ひしたか、「それは何でも花柳病の藥になるやつ[#「やつ」に傍点]でせうがな。蔭干《かげぼし》にして、煎じてな」などと言ひ出した。
誰かが何處からか蠅をつかまへて來て、片翅をもいでから掌にのせて前に出した。カメレオンの口からサツとうす朱色の肉の棒が繰出された。舌の先端に蠅がくつつくと同時に、もう口は閉ぢられてゐる。
結局この生物《いきもの》をどう扱はうかと、他の博物の教師達と相談する。どうせ長くは生きないだらうが、カナリヤの箱のやうなものでも作つて、なるべく暖い所へ置いて、この儘學校で飼つて見よう。餌は、生徒等に季節外れの蠅でも探して持つて來させれば、どうにかなるだらう、といふことになる。併し、とにかく其の簡單な設備が出來る迄は、夜の寒さと、猫などに襲はれる心配のために、私が預かつてアパアトで養ふことにした。
其の夜、私は部屋の小型ストーヴに何時もより多量の石炭を入れた。此の間死んだ鸚鵡の丸籠を下して、その中に綿を敷き、そこへカメレオンを入れた。水を飮むものかどうか知らないが、兎に角、鳥の水入も中に置いてやつた。
滑稽なことに、私は少からず悦ばされ、興奮させられてゐた。寒さなどのためにやがては死なせねばなるまいとの考へだけが私を暗くした。どうせ永く持たないのなら、學校で飼はないで、自分の處へ置き度いと思つた。動物園へ寄贈すれば、とも思つたが、何かしら手離すのが惜しい。まるで私個人が貰つたものであるかのやうに、私は感じてゐるのであつた。
久しく私の中に眠つてゐたエグゾティスムが、この珍奇な小動物の思ひがけない出現と共に、再び目覺めて來た。曾て小笠原に遊んだ時の海の色。熱帶樹の厚い葉の艶。油ぎつた眩しい空。原色的な鮮麗な色彩と、燃上る光と熱。珍奇な異國的なものへの若々しい感興が急に溌剌と動き出した。外《そと》はみぞれ[#「みぞれ」に傍点]もよひの空だといふのに、私は久しぶりで胸の膨れる思ひであつた。
ストーヴの近くに籠を置き、室の隅にあつたゴムの木と谷渡りの鉢をその傍に竝べた。私は籠の入口をあけておいた。どうせ部屋から出る心配はなし、時には木にとまり度くもならうかと思つたからである。
二
朝起きて見ると、カメレオンはゴムの木などには止らずに、机の下に滑り落ちた書物の上に乘つて、小さな眼孔から此方を見てゐた。思つたより元氣らしい。もつとも昨夕はかなり部屋を暖めたので、乾きすぎたせゐ[#「せゐ」に傍点]か、私の方が少々咽喉を痛めた。カメレオンの乘つてゐた書物はショペンハウエルのパレルガ・ウント・パラリポメナ。
勤めの無い日なのだが、カメレオンのことで午後學校へ行く。昨晩考へたやうに、設備が無いのなら學校へ置いても同じことだから、私の處で飼はせて貰はうと思つたのである。まさか學校でも一匹のカメレオンの爲に温室を拵へてはくれまい。
學校へ行つて其の許可を求めると、校長はじめ他の職員達はもう殆ど昨日のことを忘れてゐたかのやうな口吻だつた。「あゝ、あの昨日の蟲ですか!」といふ。私一人が、此の小爬蟲類の出現に狂喜してゐただけだつたのだ。
生徒達の所へ行つて、昨日頼んでおいた蠅を貰ふ。思ひの外、蠅は生殘つてゐるものだ。マッチ箱に一杯集まつた。之で二三日分の餌には足りるだらう。
蠅を持つて歸らうとしてゐると、後から國語の教師の吉田が追ひかけて來て、丁度自分も歸るからとて一緒に歩き出す。何か話し度くてたまらぬことがあるらしい。M・ベエカリイに寄つて茶を飮みながら一時間程話す。
私とほゞ同年だが、全く此の男程精力絶倫で思ひ切り實用向きで、恥も外聞もなく物質的で、懷疑、羞恥、「てれる[#「てれる」に傍点]」などといふ氣持と縁の遠い人間を私は知らない。疲れる事を知らぬ働き手。有能な事務家。方法論の大家。(本質論など惡魔に喰はれてしまへ!)常に勇氣凜々たる偏見に充ち滿ちて、あらゆる事に勇往邁進する男。運動會、展覽會、學藝會、校友會雜誌の編輯、その他何でも彼が一人で片附けてしまふ。抽象とは彼にとつて無意味と同義である。今年の正月のこと、何處かの級のクラス會で、生徒が三四人、蜜柑や煎餅を買出しに行つた。學校の前は山手から降りて來る坂になつてゐるのだが、その坂の中途迄、風呂敷包をぶら下げた買出し係の生徒等が上つて來た時、一人の持つてゐた風呂敷が解けて、中から蜜柑がこぼれた。二つ、三つ、四つ……七つ、八つ、かなり急な坂とて、鮮かな色をした蜜柑が續々ところがり出した。その生徒は思はぬ失策にひどく顏を赭らめ、風呂敷を結び直すのがやつとで、轉がる蜜柑を追ひかけるどころではなかつた。學校以外の人々の往來も相當にあるので、一寸羞づかしかつたのであらう。丁度其の時坂の上に立つてゐた吉田は、之を見るや猛烈な勢で駈下り始めた。小石を蹴とばし、砂利で滑りさうになり、つんのめりさうになり、途中に立つ生徒を突き飛ばして、短躯の彼は背中を丸くして蜜柑を追ひかけた。一度轉んだが直ぐ起上り、砂も拂はずに又駈け出し、到頭十五六の蜜柑を悉く拾ひ上げ、坂の片側の溝に轉げ落ちることを防いだのである。生徒等も通行人達も呆氣にとられて立止り、彼の猛烈な勢に見とれてゐた。吉田は蜜柑を手に持ちポケットにも入れ、「みんなボヤーツと見とつちや駄目やないか」と生徒等に叱言《こごと》を言ひながら、又登つて來た。彼の顏が赧くなつてゐたのは、單に走つたからなのであつて、決して、彼がてれて[#「てれて」に傍点]ゐたためではない。正に、この男こそ、私の、以て模範とすべき人物だと其の時、私はしみ/″\思つた。此の男は何時も、人間は――或ひは、生物は――斯く生くべし、と、私に教へて呉れるのだ。高等小學生的人物と彼を評した者がゐる。小學校の高等科の生徒といふものは中學生のやうな小生意氣さが無く、實に良く働いて、中學生などよりどれ程役に立つか判らないといふのである。影の薄い大學生よりも、溌剌たる高等小學生の方が遙かに立派だと、私も思ふ。
話をしながら、吉田は、内ポケットから一枚の紙を取出して私の前に擴げた。私がそれを見せられるのは今日で二度目である。それは此の學校の全職員の俸給表で(私立學校で、職員録に明示されない)彼が何處からか聞き出して丹念に書竝べたものだ。なほ、前年度のボーナスの推定額迄、書入れてある。彼はかういふ事を探り出すことが實に上手で、又それを自《みづか》ら得意としてゐる。自分と交際のある凡ての人間に就いて、彼は、一々興信所的な方法で身許調査を行つてゐるもののやうだ。殊に自分が反感をもつ人間に對しては、執拗な程徹底的に調べ上げて、彼等の疵を探し出すのである。この俸給表の中、彼よりも不當にも俸給の多い教師の名前の横には、赤鉛筆で棒が引いてある。彼はそれを誰彼に示しては、關西辯で縷々として不平を陳べるのである。
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「割烹のTな、女のくせに僕よりたんと[#「たんと」に傍点]取りよるんや。はじめの交渉の仕方一つで、どうにでもなるんで、決つた標準は無いのやでなあ。目茶や、まるで。」
[#ここで字下げ終わり]
この前に一度この表を見せた時も、同じやうな言葉で、Tといふ割烹の教師のことを言つてゐた。今見ると、Tの名前の上だけは、赤鉛筆に副へて青鉛筆でも濃く何本か棒が引かれてゐる。
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「それで、あんまり目茶やから、僕、校長の所へ言ひに行つたんですよ。とにかく此方《こつち》は教育を受けた年限も長いんやから、心臟が強い云はれるかも知らんけど、なんぼでもよいからTさんより上にして下さい言うたんですよ。さうしたら、成程、尤もだから、では、Tさんより三圓だけ多くしませう、いうて。三圓やで。たつた。それでも今よりは、まあ良いけど。」
[#ここで字下げ終わり]
吉田は其の俸給表を前に擴げたまゝ、つゞいて、職員の一人々々に就いて其の經歴やら家庭的な事情やらを話し出した。女教師の中、誰と誰とは女高師を出たといふ觸込で來てゐるが、實は臨時教員養成所を出たゞけであること。國語の主任をしてゐるNが月給を二月分前借してゐること。圖畫の老教師Hが表具屋、繪具屋等と生徒との間でえらく[#「えらく」に傍点]サヤを取つてゐること。英語のSが音樂の女教師と近頃よく連立つて歩いてゐるといふ噂のこと。他人の祕密を知つてゐることが吉田にとつて此の上なく滿足なやうな話しぶりである。彼の話によると、彼は今日、主任のNと何か口論したらしく、又別に、體操科の教師とも渡り合つたらしい。之は何でも先月|行《おこな》はれた運動會のプログラムの進行に關して、吉田と體操の教師達との間に、當時、意見の衝突があり、それが未だこじれてゐるものの由である。吉田といふ男は、事務に追はれてゐないと、胃酸過多の胃が、消化すべきものを有《も》た
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